耳・頭・心・体
仏教で、聞・思・修という言葉があります。
まず教えを知識として学び(聞)、それについて深く思索し(思)、それを瞑想する(修)というプロセスのことです。
私はこれをアレンジして、耳・頭・心・体というプロセスがいいのではないかと思います。
耳とは、教えを学ぶことです。もちろん、本を読んだり話を聞いたりして、視覚的にも聴覚的にも学ぶわけですが、まだそれが耳や目から入ってくるだけの知的な情報に過ぎない段階です。
それを今度は頭で考えます。論理的にその意味を分析したり、自分自身や他者の経験に当てはめて、その言葉の持つ深い意味を理解しようとするプロセスです。
そして瞑想に入ります。さまざまな条件を整えて深い瞑想に入ることで、たとえば教えの内容を体験的に経験したり、直感的に理解したりします。あるいは、頭で考えるのではなく、心で考えます。表面的な論理の組み立てを超えた、もう少し深い意識下での思索や熟考をしたりもします。あるいは自分の深い意識を観察し、それに教えを当てはめ、問題を解決したり、教えの理解を深めたりします。
このようにして練られた教えは、実生活において焼かれ、叩かれることで試され、強くされなくてはなりません。
教えという粘土に、思索という水を混ぜ、瞑想によって練り、それを実生活で焼くのです。
こういう話があります。ある僧が忍耐について瞑想していました。そこへある男がやってきて、「何をしているのですか?」とたずねました。僧が「忍耐について瞑想しているのです」と答えると、男はそれに対して馬鹿にしだしました。散々ひどい言葉と嘲笑を浴びせられ、僧はついに、「何だと!」と、怒って立ち上がりました。すると男は言いました。「おや、あなたの忍耐はどこへ行ってしまったのですか?」
別の話もあります。昔インドに、火を拝んで修行している修行者がいました。この修行者は、ヒンドゥー教の最高原理である不二一元論を説き、すべては一つ、すべては唯一のブラフマンなり、という教えを説いていました。
するとそこへ、ある男がやってきて、なんと、神聖な火の中に、タバコを捨てたのです。それを見た修行者は、烈火のごとく怒り、その男を怒鳴りつけました。
その一部始終を見ていたラーマクリシュナは、笑いながら言いました。
「あなたのブラフマンの悟りは、怒りによって消えてしまいましたね。」
こう言われたその修行者は、ハッとしました。そうして今の自分の行動と心の働きを分析しました。そして、怒りは悟りを阻害するということに気づき、「私は今日以来、一切の怒りを捨てよう」と決意し、実際にそれ以来、怒ることはありませんでした。
教えは、机上の空論ではしょうがないのです。聞いただけの知識というのは、最も浅いレベルです。それが思索によって練られ、その人はそれを少し理解します。そして深く瞑想することで、かなりその真義を理解するでしょう。しかし理解し、ある程度悟っていたとしても、それを実際に実践するのは、なかなか難しい場合があるのです。それは過去の行為によって作られた習性やカルマがあるからです。よっておそらく、ここで多くの失敗をするでしょう。あるいは多くの気づきを得るかもしれません。そうしたらそれを持ち帰り、師匠がいる人はそれについて師匠に聞いたり、あるいはまた教えを学び、その修正に入ります。
そうしてその新たな実体験をもとに、再び思索し、瞑想するのです。こうして智慧を深め、また実生活で使ってみます。そしてまたその経験を持ち帰り、修正を繰り返すのです。
だから耳(教えを学ぶ)、頭(思索する)、心(心で瞑想する)、体(実生活で実践する)の繰り返しが重要だと思います。それによって自分のウィークポイントや無智、使えない理論は修正され、より実践的な生きた智慧が育てられていくことでしょう。