簡潔・十二支縁起
12支縁起について、簡単に。
無明を条件として、行が生じる。
行(サンスカーラ)とはいろいろな説明ができますが、簡単にいえばカルマの法則の流れそのものだといえるでしょう。
精神的な側面も含めた、カルマの流れですね。
もっと言えば、経験から来る心の習性の形成と、その心の習性から生じる新たな経験の流れです。
無明とは、明がないこと。
明とは真実をありのままに明らかに観る智慧。
ありのままに観れないから、経験にとらわれ、行が成り立つわけです。
経験から生じる心の習性が、固定的観念的識別、つまり経験から来る偏ったものの見方を生み出します。
この偏った識別により、「私」という自我意識観念は強まり、「名色」と呼ばれる状態になります。
「私」という自我意識の基盤である名色があるということは、他者という概念も生じなければなりません。そしてその他者を認識するための能力も生じます。これが六処です。
私がいて、他の者がいて、それをつなぐものもあるなら、当然、それらは触れ合います。
触れ合うことによって、苦、楽、どちらでもない、のいずれかの「受」が生じます。
しかしこの楽とか苦というのは、絶対的客観的なものではありません。
あくまでも無明、そして経験から生じた習性、そこから生じた識別作用がもとになっているので、偏った主観的な苦楽の認識になります。
そして、楽の受に関しては、強い渇愛が生じます。
苦の受に関しては、強い嫌悪が生じます。
楽の経験から来る渇愛。
苦の経験から来る嫌悪。
これらが繰り返されると、それらは「取」、すなわち執着になります。
たとえばチョコレートを食べたことがない子供が、初めてチョコレートを食べた。「おいしい!」・・・これが楽の受です。
「もっと食べたい!」・・・これが渇愛です。
そして何度もその経験をするうちに、もうチョコレート無しではいられなくなる。これが「取」です。
あるいは、ある友達に嫌なことを言われた。「悲しい!」・・・これが苦の受です。
「もう言われたくない!」・・・これが嫌悪です。
そして何度もその経験をするうちに、もうその友達と顔を合わせるだけで、嫌な気持ちになり、怒りや苦しみが生じるようになります。これが「取」です。
これによって、我々はこの現実世界、生存の世界にしっかりと結び付けられます。
それによって、死んでも、またこの世に生まれるのです。
生まれることで、行、すなわちカルマの内容に基づき、カルマの果報を受けるための人生を生きなければなりません。
このプロセスはそもそもが無明から始まっているので、すべてが間違いであり、人生も苦に満ちたものになります。
そして今生で受けるべきカルマの果報の経験が終わりに近づくのが、老いるということであり、そして今生で受けるべきカルマの終焉が死です。
しかし智慧によって無明を払わない限りは、カルマの流れや心の習性は存続し続け、12支の縁起の流れは延々と続きます。
では、どうすべきなのでしょうか?
うじゃうじゃ小難しいことは書かずに(笑)、実践的なポイントを簡潔に書きましょう。
カルマの果報の受け皿に過ぎないこの人生において、新たな悪業を積まないこと。新たな悪い心の習性を作らないこと。
苦しいことがあってもそれは自己のカルマであると考え、耐え、浄化に励むこと。
そして善業を積み、良い心の習性を形成することに励むこと。
これらによって、この12支縁起という幻影から逃れられなくても、少なくとも良い幻影、良い人生がやってきます。
そしてそれと同時に、渇愛や嫌悪を弱めていくこと。
渇愛や嫌悪が滅されれば、解脱します。
そしてすべての諸悪の根源である無明の闇を払うための、明の智慧(悟り)を得ること。
これに成功すれば、すべては消え、すべては終わります。
ちょうどそれは、太陽が昇れば、蛍の光は見えなくなるようなものです。
そして私は、菩薩には、また別のプロセスがあると考えます。しかしそれについては、今はまだ触れないでおきましょう。