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第四章 究極の意味

第四章 究極の意味

 有でもなく、無でもなく、
 そのままでもなく、異なるのでもなく、
 生ずるのでなく、滅するのでもなく、
 増えるのでもなく、減るのでもなく、
 清浄にされることなく、清浄にされないのでもない。
 これが、究極の意味である。
 
 また、自我はどこにも存在しない。
 これはただの迷乱である。
 自我が存在しないのだから、自我からの解脱も本来存在しない。
 
 どうして衆生は、自我執着がただ苦しみでしかないことを理解せず
 そのような迷乱でしかないものをよりどころとするのか。
 この世の現象はすべて縁起によって成り立つ。
 そのような縁起を知ることなく、存在しない自我を信じることによって、
 衆生は闇に落ち込んでいく。

 ニルヴァーナと輪廻との間には、何らの区別も存在しない。
 それにもかかわらず、もろもろの善業をなす者には、死後、ニルヴァーナに至ることが許される。

 菩薩は、智慧と功徳の資糧を無限に積み続けて
 もろもろの現象に対して善なる思惟をし続けるがゆえに
 真理に向かうことが確定する。
 また彼は、すべての現象はただ心と名前のみであると識別して
 それらをあらわす心の中にのみ住する。
 そしてそれゆえに、二相を離れた法界が現前する。
 この世は心のみであると如実に理解して、
 その心もまた存在しないことを完全に悟る。
 ゆえに、賢者は二相の存在しないことを完全に悟り、
 二相を超えた法界において安住する。
 賢者は、常にあまねく平等に広がる無分別智の力によって、
 大いなる悪業を取り除く。
 解毒剤によって毒を除くがごとし。

 ブッダがお説きになられた善法に
 よく安住せる賢者は
 法界の中で智慧の境地に安住し
 思いの及ぶところはただ分別のみであると理解して
 速やかに、功徳の海の彼岸に到達する。

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