yoga school kailas

 チベット仏教ゲルク派の祖であるツォンカパは、もともと瞑想の能力に優れ、何時間にもわたって、深い瞑想に入ることができたといいます。

 ツォンカパは、自分が瞑想で経験するある無思考の状態こそ、仏教の心髄である「空」の境地であると考えていました。
 ところで、「空」の教えは、まずお釈迦様が説き、そして般若経群において徹底的に説かれ、ナーガールジュナによってその基本が論理体系化された後、さまざまな派によって、さまざまな観点から空の理論が解釈されていました。ツォンカパは、自らが体験している瞑想の境地が、どの派が説く空の境地に近いのか知りたくなりました。そこで、ツォンカパの師匠であるウマパを通じて、マンジュシュリー菩薩に直接聞いてもらうことになりました。

 マンジュシュリー菩薩は、こう告げました。
「お前の経験しているものは、どのタイプの空でもない。お前が空性の体験だと思っているものは、空でもなんでもない。しかし功徳をしっかりと積むなら、やがて空を理解できるようになるだろう。」

 この答えに、ツォンカパは大きなショックを受けました。そしてその後、ツォンカパは、何十万回もの五体投地や、何十万回ものマンダラ供養に励みました。マンダラ供養の修行は、普通は米を使って行なうのですが、ツォンカパは石で行なったため、手は傷だらけになりました。

 その他にも、さまざまな功徳を積む修行に励んだ結果、ついにツォンカパは、空性の直接的な悟りを得たといいます。

 この話は、我々に大切な教訓を与えてくれます。
 
 ツォンカパは大変博学な学者であると同時に、優れた瞑想家でした。しかしマンジュシュリーに、「お前の理解しているものは、空でもなんでもない」と喝破されたのです。

 今、多くの人が、空について語っています。ある人は論理的理解によって、またある人は直感的フィーリングによって。
 しかしその中の誰が、このときのツォンカパよりも優れた論理的理解、あるいは直感的経験をしているでしょうか?

 天才的学者であり瞑想家であったツォンカパでさえ、その空の理解は、単なる思い込みによる偽りの理解だったのです。しかしツォンカパは謙虚にその事実を受け入れ、基本的な功徳を積む修行に励み、ついには本当の空に到達したのです。

 空の境地は、二元性を越えています。しかしその空の扉を開くには、功徳を積んだり、帰依を強めたり、悪業を滅したりといった、二元的な世界の修行が必要なのです。

 そして功徳の光が十分に心に満ち、心の汚れが十分に拭い去られたとき、言葉を超えた空性の体験が実際に始まることでしょう。

 もちろん、それまでに、論理的に空の教えを学んではいけないというわけではありません。論理的に空の教えを学んだり、それについて瞑想することは、その人の修行や人生にさまざまなメリットをもたらすでしょう。しかしそれはまだ概念であり、本当の空の理解・悟りではないのだということは心に留めておくべきです。

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