私とは何か
ここ数千年の間に、西洋人たちは、自然科学、物理学といった、私たちの外側の世界の研究、実験と検証に力を注いできた。そしてこの物理世界の多くの事実が解明され、それを応用した科学技術は、今、私たちの生活を豊かにしてくれている。これはもちろんすばらしいことだ。
しかしインドをはじめとした東洋の哲人たちは、西洋の哲人たちが外側の世界に目を向けている間に、静かに、そして強烈な熱意を持って、人間というものの内側の研究、実験、検証に励んできたのである--自らの心身を使って。そうして生まれた内的科学こそがヨーガ科学であって、それを応用したヨーガ科学技術が、日本で普通にヨーガと言われている、体操や呼吸法に代表されるものなのである。
古代の賢者たちの最大の関心は、「私とは何か」ということであった。そしてもうひとつ、「宇宙とは何か」ということであった。そして賢者たちは、この二つの命題の答えが、実は同じであることに気づく。
「私」とは何か? 例えば私は鈴木太郎だ、というかもしれない。しかしこの「名前」というのは、単に人間同士で設けられた約束事であって、実際は何もあらわしてはいない。
この肉体こそが私だ、あるいは、この五感で感じられる感覚こそが私と宇宙を作っている、という人もいるかもしれない。
しかし瞑想修行を進めて行くと、これらがすべて間違いであることに気づいていく。
では、わたしとは「心」なのか? いや、この「心」とあいまいに呼ばれているものさえ、大雑把に言えば、単なるデータの集まりに過ぎない。コンピュータの中のデータのようなもので、そこに「私」という実体は見出せない。これには多くの解析方法があるが、長くなるのでここでは省略する。
このように探求を進めて行った賢者たちが到達した答え、それがアートマン--真我と呼ばれるものだった。
もちろん、この真我というものも言葉に過ぎない。本当の真実は言葉で表すことは不可能だ。なぜならば言葉とは相対的で二元的なものであり、真実とは絶対的で非二元的なものだからだ。
インドの歴史において、ヨーガと仏教の論争、そしてヨーガ内での様々な学派同士の論争、仏教内での様々な学派同士の論争が繰り広げられてきた。しかしこれらはすべてナンセンスだ。
極言すれば、ヨーガが真我と呼ぶもの、小乗仏教がニルヴァーナと呼ぶもの、大乗仏教が空と呼ぶもの、これらはすべて同じなのだ。前述したように、言葉で表せない絶対的なものを言葉で表現しているわけだから、厳密に言えば言葉にされたものはすべて間違いだということになる。しかし何とかしてあらわそうとして、過去の賢者たちは色々なやり方で表現方法を工夫してきたのだ。
だから真我というのも、ニルヴァーナというのも、空というのも、厳密に言えば間違いなのだ。それらはすべて近似値をあらわしているに過ぎない。
では真実は何か? それは、あなたが自分で見るしかない。自分で悟るしかない。そのための方法がヨーガだ。
お釈迦様が弟子に教えを説いたとき、「君たちは自分でこれを経験するまでは、私の言葉を信じてはいけない」と言ったという。これがヨーガや仏教のスタンスだ。
ヨーガの聖者も、お釈迦様も、自分のアイデアで教えを作り出したわけではないのだ。彼らは「発見した」という言葉を使っている。そう、彼らはもとからあったものを発見したに過ぎない。そしてそれは私たちにも発見できる、発見しなければならないものなのだ。
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