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相互依存としての12縁起について【理論と実践】

 「12縁起の法」が、仏教の中心的なテーマのひとつであることは疑いない。

 しかしそもそもその12の項目の一つ一つの意味とは何か、
 そして「縁起」の意味とは何か、
 これらについて、古来よりさまざまな説がある。

 これは修行における課題でもあるので、
 究極的には、個々人が修行によって悟っていくしかないわけだが、
 私は今まで、私が考えるところの12縁起について、何度か書き記してきた。

 今回もまた、これまでとは別の角度から少し書いてみたいと思う。

 ナーガールジュナは、それまでの仏教界の常識とは違い、
 「縁起」を「相互依存」という意味に解釈した。
 そしてその流れをくむチベット仏教なども、「相互依存」という意味での縁起の解釈を、重要視している。

 しかし、相互依存としての12縁起って何?
 わかったようで、わからない人がほとんどだと思う。
 
 そこで今回は、「相互依存」という観点から
 私の考える12縁起を、簡単に説明してみよう。

 ここに書くことはあくまでも私自身の気づきであり、
 また、「答え」ではなくあくまでも「ヒント」なので、
 真実を求める方々が、何らかの参考にしていただけたらいいと思います。

 長があるから短がある。
 短があるから長がある。
 どちらか一つで自存することは不可能である。

 同様に、
 善と悪は相互に依存して存在し、
 生じることと滅することも、
 光と闇も、真と偽も、重いことと軽いことも、
 すべてはお互いに依存しあうことでそれぞれ存在しているように見えているだけのものであり
 真実にはいかなる物事も自存することはない。
 
 同様に、

 無明あるがゆえに、行(経験から生じる潜在的な情報)がある。
 智慧があれば、経験に引きずられることはないから。
 しかし同時に、行があるがゆえに無明がある。
 経験に引きずられることで、真実が見えなくなるから。

 行があるがゆえに、識別作用がある。
 経験をもとにして識別が決まるから。
 しかし同時に、識別作用があるがゆえに行がある。
 経験に対して何らかの識別をすることで、それがインプットされたものが行だから。
 
 識別作用があるがゆえに、自我がある。
 識別の主体が必要になるから。
 しかし同時に、自我があるがゆえに識別作用がある。
 識別の主体である自我がなければ識別することもできないから。

 自我あるがゆえに、他者がある。
 しかし同時に、他者があるがゆえに、自我がある。
 
 自我と他者があるがゆえに、それらの接触がある。
 しかし同時に接触がなければ、自我と他者があるとはいえない。

 接触があるがゆえに、感覚がある。
 しかし同時に感覚がなければ、それは接触とはいえない。

 感覚があるがゆえに、それに対する好き・嫌いの渇愛がある。
 しかし同時に好き・嫌いの渇愛がなければ、そもそも苦楽の感覚という幻影は生じない。

 好き・嫌いの渇愛があるがゆえに、その渇愛の対象を取ることとが生じる。 
 しかし同時にわれわれがその対象を取っていなければ、そこには好き・嫌いの渇愛もない。

 渇愛の対象を取ることがあるがゆえに、有(存在)がある。
 もともと有(存在)は幻影にすぎないが、「取ること」によってその幻影が生じるから。
 しかし同時に有(存在)がなければ、「取ること」はできない。

 有(存在)があるがゆえに、生じることがある。
 有(存在)とは生じるものであるから。
 しかし同時に生じるということがなければ、それは有(存在)とはいえない。

 生じることがあるがゆえに、衰退することと終わることがある。
 しかし同時に、衰退することと終わることがなければ、生じることもない。

 つまりこの相互依存の12縁起というのは、
 合わせ鏡の中の無数の鏡のように、
 どれ一つも欠けることは不可能であり、
 この12縁起を終わらせるには、
 そのすべてを同時に終わらせるしかない。

 といってもそれはとても難しい。

 現実的な対応としては、
 これらすべてのシステムについて日々考え、
 これらのシステムに基づいて自己を日々観察し、
 どの部分でもいいから、アプローチを繰り返し、
 それぞれの項目を弱めていく。
 それによって全体のガチガチとした結びつきを、少しずつでも弱めていく。

 日々考えることと、
 日々自己観察することについては、
 各自で真剣に行なえばよい。
  
 そしてアプローチに関しては、「放棄」と「変容」の方法がある。
 細かく説明すると長くなるので、端的に具体的な実践例をあげていこう。

 ☆日々教えを学び、自分の考え方を変えていく。

 ☆自動的に生じる識別を日々の経験に対して当てはめるのではなく、
  教えにのっとって物事を見る(正見)。

 ☆または、できるだけ識別をやめる。
 
 ☆自我意識をできるだけ弱める。

 ☆または、「私は菩薩である」「私は神のしもべである」等の自我意識を強く持つ。

 ☆自己と他者という識別を日々弱める。

 ☆他者を自己のように愛する。

 ☆苦楽の幻影性を日々観察する。
  苦しみから逃げず、楽におぼれない。

 ☆または、すべての経験に感謝する(すべてというのが重要)。

 ☆または、すべての経験を、神や仏陀への捧げものと考える。

 ☆好き・嫌いの二元性をできるだけ離れる。

 ☆すべての衆生を愛する。
  そして一切の憎しみを捨てる。

 ☆心を外側の世界に粘着させない。
 
 ☆世界を固定しない。

 ☆すべてが瞬間瞬間、生じては滅していくことを常に観察する。

 ☆未来への期待・恐怖と、過去への後悔・思い出を捨て、ただ今この瞬間に集中し続ける。

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