牢獄を消す
人はいつも自分で勝手にいろいろなものにとらわれ、狭苦しい世界を作り上げている。
もちろん、だからといって無観念になれといっているわけではない。本当に悟りを得るまでは、教えという観念を、生きる指針として大事にすることが必要だ。
ここで言っているのはそういうことではなく、もっとベーシックな問題として、多くの人は、世界に勝手に鉄格子を作り、壁を作り、迷路を作り、その狭い世界で苦しんでいるということだ。
それを破るには? もちろん実際はケースバイケースで様々な教えがそこで必要になってくるが、大まかに端的に言うならば、「愛」だろう。愛着ではなく、相手を受け入れる、許す、あるいは全員を親友と見るような、みんなの幸福を願うような、オープンな愛だ。。
そして実際はそれだけではない。まあ神への愛といってもいいが、人だけではなく一切の現象を受け入れるオープンさも必要だ。
この一切を受け入れるというのも、誤解されやすい言葉で、なかなか表現しにくいが・・・例えばそれは、あくまでも教えを学び、真理を追究するということを前提としたうえで、他のすべてを投げ出す感覚だ。
投げ出すというのは別に実際にいろんな物質を捨てるという意味ではない。まあまさに、とらわれないということだ。
とらわれないというのも・・・たとえばあの店のラーメンおいしいな、食べたいな、とか思ってはいけないということでもない笑 それは別に思ってもいいのだが、なんというか、そこでおいしいラーメンという牢獄を作ってはいけないということだ。
もちろん、この投げ出した生き方は、繰り返すが、教えや修行という軸がなければ不可能である。
その意味でも、ダルマ、教え、修行に出会えたことは、素晴らしいことなのである。
実際は、縁のある師、あるいはブッダや至高者の導き、愛、力によって、縁ある者は自然に目ざめへと導かれていく。それに摩擦を加えたり抵抗してそのスピードを遅らせているのは、自分自身の観念なのである。それを投げ出しさえすれば、そして帆をあげさえすれば、すべての目覚めへの変革はスムーズに進んでいくだろう。
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