無我と無智
空とか無我という境地は、一歩間違えてイメージすると無智になり、そのような間違った瞑想を続けると、動物界に落ちてしまう、とチベットのマハームドラーの教えに説かれています。
マハームドラーとは、心の本質に直接アクセスして、この空とか無我とか言われる真理を悟る技法ですが、その教えにおいても、このような注意が促されているわけです。
また別の教えでは、空への偏った見解と現実への偏った見解はどちらもいけないが、どちらかといえば後者のほうがましだ、とも説かれています。
これはどういうことでしょうか? 仏教では二つの真理を説きます。それは絶対的真理(勝義諦)と世俗の真理(世俗諦)の二つです(ヒンドゥー教の教えも同様です)。
絶対的真理とは、空とか無我(非我)の教えですね。世俗の真理とは、これはよく勘違いされるのですが、この世をうまく渡っていくには金が必要だとか、このように人とうまくやらなければならないとか、そういう現世的な常識のことではありません。そうではなくて、カルマの法則とか、輪廻の教えとか、そういったものです。つまり空の境地から言えば、カルマの法則さえも空なのです。しかしそれでもわれわれは、この世に身をおいている以上、カルマの法則にしたがって生きなければならないのです。
しかし空の境地を知らずにカルマの法則や戒律などの教えだけに偏ると、ちょっと固い感じになり、柔軟な真理の真髄を理解しづらくなります。
逆に空の教えに偏り、カルマの法則や煩悩滅尽などの相対的真理を無視すると、本人は悟ったような気分になり、気持ちいいのですが、実際はその人を縛るカルマは悪化し、低い世界に落ちてしまいます。
だから理想は、心のベースで空の真理を理解しつつ、現実的にはカルマの法則に基づき、戒律を守り、心と言葉と行為を教えに基づいて微細に検討しながら生きることが必要なのです。
しかしもしどちらかに偏ってしまうならば、後者に偏るほうがましなのです。
イメージの「空」とか「無我」ではだめなのです。これらは実際に悟られなければなりません。そしてイメージや単なる論理的思索によって得る「空」や「無我」は、動物界のカルマとしての「無智」と非常に似てるんですね。
だから、たとえば禅寺などで、あるいは自己流でボーっとして座って瞑想して、ああ、気持ちいいなあ、という瞑想は、もしかするとただ無智を増大させ、動物のカルマを増やしているだけということもあるのです。
本当の瞑想は、まず強烈な集中力が必要です。そして鮮明な意識が必要なのです。そこで現われるのは闇とか無ではなくて光です。イメージの光ではなくて、本質的な光です。そして真の空や無我に至るには、長い心の旅をしなければなりません。その間に多くの神秘的経験をします。この途上の経験を、禅などでは、すべて邪魔だとして「魔境」といって否定します。密教やヨーガでは逆に、それらの神秘体験を利用して上がっていきます。どちらにしろ、強烈な集中力と鮮明な意識によって、心の奥へ奥へと旅をし、さまざまな経験を超え、最終的に空や無我を悟るのです。そしてそこへ到達するまでは、空や無我のある程度の理解と同時に、カルマの法則をはじめとした相対的真理も、しっかりと学び、実践しなければならないのです。