yoga school kailas

有暇具足

 仏教において、人が真理の修行を行なうことができない八つの条件として、「八難」と呼ばれるものがあります。その八つとは、

①地獄に生まれること--地獄の住人はあまりにも苦しく、修行しようなどという気になれない。
②動物に生まれること--動物はあまりにも無智で、修行しようなどと考えられない。
③餓鬼に生まれること--餓鬼は常にむさぼりの思いでいっぱいで、修行しようなという気になれない。
④天界に生まれること--天界の住人は一時的な楽の状態で満足してしまい、修行しようなどという気になれない。

 よってまずは人間に生まれることが、修行をする最低条件となるのです。なぜなら人間界は、そこそこの苦しみとそこそこの幸せがあり、かつ人間はある程度の思索力を持つので、この人生の意味を考え、修行しようという結論に達することができるのです。
 しかし仮に人間に生まれたとしても、修行を妨害する条件があります。それが次の四つです。

⑤真理の修行者や実践者がいない辺境の地に生まれること。
⑥真理を理解できない愚か者として生まれること。
⑦前世と来世はないとか、カルマの法則はないとか、仏陀や真理の教えもないなどという、誤った見解に陥ること。
⑧仏陀の教えがない時代に生まれること。

 そして逆に、真理の修行を行なうために必要な条件として、「五つの自己の具足」と「五つの他者の具足」というものがあります。自己の具足とは自分が身に着けておかなければならない内的条件であり、他者の具足とは外的条件のことです。

・五つの自己の具足

①人間界に生まれる。
②真理の修行者や実践者がいる地に生まれる。
③愚か者でなく、ある程度の理解力を持つ。
④過去に五逆の罪などの大罪を犯したカルマ、あるいはそれを他に犯させたカルマがない。
 五逆の罪とは、それをなしたなら最悪の無間地獄に落ちるとされる五つの罪です。それは以下の五つです。
 1.父親を殺す
 2.母親を殺す
 3.解脱者を殺す
 4.仏陀の体から血を流す
 5.真理の修行者の集団を分裂させる
⑤仏陀の教えを信じること。

・五つの他者の具足(外的条件)

①仏陀が出現したこと。
②仏陀や、それに次ぐ者たちが教えを説いたこと。
③その教えが、現代にまで残っていること。
④その教えと自分が出会えること。
⑤その教えを指導してくれる師に出会えること。

 自分が以上にあげたすべての幸運に恵まれていると知ったなら、永遠の幸福を得るために、懸命に真理を修行しなければならない、と仏教は説きます。
 ただ現世の幸福だけを望み、現世の苦しみを除くことだけに努力するなら、せっかく人間に生まれても、動物とあまり変わりありません。
 よって、
「このような良き条件を得たこの人生を、私は無駄にできようか。このような良い条件に恵まれながらそれを無駄にしたなら、自分で自分を欺いたことになるし、これ以上の無知蒙昧はない。
 私は苦しみの世界を今まで数え切れないほど輪廻してきた。そうしてやっとめぐってきたこの真理の修行の実践のチャンスを無意味に捨て、また苦しみの世界に戻るとしたら、私は想像もできないほどの愚か者だ」 
・・・などということを、たびたび修習すべきである、と言われています。

 もちろん真理の修行は、解脱・悟りなどの究極の至福だけではなく、現世の幸福に関しても、大きな利益があります。現世の幸福と究極の至福、この二つを得る因である真理の修行に対して昼夜に努力せずに、この恵まれた人生を無駄にするなら、それは宝の山にたどりついて手ぶらでもどってくるものだ、と言われているのです。

 ところで、原始仏典においてお釈迦様は、生命体が死んで次に生まれ変わる世界の確率について、非常に厳しいことをおっしゃっています。
 お釈迦様はあるとき、わずかな土を指先に乗せて、弟子たちにおっしゃいました。
「この私の指先の上の土と、この大地全体(の土)とでは、どちらが多いか?」
 弟子たちはもちろん、それは比べ物にならないほど、大地の土のほうが多いと答えました。
 するとお釈迦様は、
「地獄・動物・餓鬼・人間・天の魂が死んで、次に人間・天に生まれ変わる確率と、地獄・動物・餓鬼の三悪趣に生まれ変わる確率の比較も、それと同じようなものだ」
とおっしゃいました。
 これはつまり平たく言えば、われわれ人間も、天の神々も、死んで次に生まれ変わるのは、99%以上の確率で、地獄か動物か餓鬼という三つの苦しみの世界だ、と、非常に厳しいことをおっしゃっているわけです。
 現代の人々は、「死んだら天国に行く」あるいは「死んだら無になるだけだよ」などと言う人も多いです。何を信じるかはその人の自由ですが、少なくとも仏教の開祖であるお釈迦様は、このような厳しいことをおっしゃっているわけです。
 しかしそれは論理的に考えれば、仏教理論と整合しています。たとえば地獄の因である怒りや憎しみや暴力や殺生。動物の因である無智や、性欲や食欲といった本能的煩悩に流されること。餓鬼の因であるむさぼりや盗み。現代は、お釈迦様の時代以上に、これらの因を積み続ける人生を送る人がほとんどでしょうから、これらの因果関係が正しいとするならば、ほとんどの人間が悪趣に落ちるというのは正しいと思われます。
 また、一度地獄・動物・餓鬼のどこかに生まれてしまったら、前述のように、悪を避け善を行なったり、修行に励むことは難しいので、永い間、ひたすら悪趣を輪廻し続けると説かれています。

 さて、以上あげたもろもろのことを踏まえた上で、四つの法についてしっかりと思惟しなければなりません。その四つとは、

①自分も含めてすべての魂は、苦しみを厭い、幸福を望んでいる。そして本当の意味で苦しみを破壊し、幸福を得ることができるのは、真理の法の実践のみであること。

②今自分は上にあげたようなさまざまな内的・外的条件を備えているので、自分の努力しだいで、真理を実践して成就することが可能であるということ。

③しかもそのような条件に恵まれるのは稀なことであり、このチャンスを逃したらいつ次にそのような条件に恵まれるかわからないため、今生において真理の修行を成就すべきであること。

④今生もいつ終わるかわからない(いつ死ぬかわからない)のだから、わずかな時間も惜しみ、今この瞬間に修行を成就する心意気で努力すべきであること。

 さて、このような教えは、現代では少し厳しく感じられるかもしれません。日本には仏教のこういう厳しい面はあまり伝わらなかったようですね。
 しかし2500年前のお釈迦様の時代も、現代も、これらの原則が変わっているわけではありません。これらはお釈迦様がおっしゃったことをベースとしているので、信じる信じないは自由ですが、少なくとももし仏教の実践を望む方や、お釈迦様の言葉を信じるという方がいらしたら、上記のような考えおよび実践は真剣に行なう必要があると思います。

 今日は、仏教の「有暇具足」という教えについて説明させていただきました。

 ちなみに、ヨーガ的技法を取り入れた密教を中心においているチベット仏教でも、本格的なヨーガ行や瞑想修行に入る前に、この「有暇具足」の教えを徹底的に学ばせ、瞑想させるシステムになっています。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする