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月光の言葉(1)「序」

月光の言葉
 ――けがれなき水晶の首飾り

 解説・入中論

ジャムゴン・ミパム・リンポチェ

arrange:Shavari

 チャンドラキールティのマディヤマカーヴァターラ(入中論)は、第二の仏陀といわれる尊く輝かしい師ナーガールジュナの究極の見解を説明しているシャーストラの王である。
 それに関して、まず以下の四つのテーマを提示する。
Ⅰ.タイトルの意味
Ⅱ.敬意
Ⅲ.論文
Ⅳ.結論

Ⅰ.タイトルの意味

 根本テキストは、サンスクリット語でマディヤマカーヴァターラ(中道への趣入=入中論)という。
 中道という表現は、二つの意味を持つ。一つは、究極のレヴェルにおいて、それはダルマダートゥのことであり、絶対のマディヤミカとは、あらゆる概念を超えたリアリティのことである。
 二つ目は、その究極のリアリティについて説かれた聖典のことである。
 そしてここで我々が言及するのは、二番目の意味であるマディヤミカの聖典のことであり、そしてそれは仏陀の教えとその解説が含まれている。
 それはムーラマディヤマカ・カーリカー(根本中論頌)として知られている、ナーガールジュナのシャーストラのことである。それは深遠で広大なアプローチを盛り込んだ手引き書である。
 深遠なアプローチとはつまり、ナーガールジュナ自身が、究極の意味について解説している聖典だということである。
 ムーラマディヤマカ・カーリカーは、スワータントリカ(中観自立論証派)とプラサーンギカ(中観帰謬論証派)の土台となる聖典である。
 そしてこのテキストの注釈において、チャンドラキールティは、一切の言葉の断定の力のおよばないところにある本質的な究極的真理を強調している。
 よって彼は、プラサーンギカの非凡な見解を導入しているといえるのである。
 広大なアプローチに関してはどうかというと、彼は、普通の存在の三つのレヴェル、学の道における崇高な存在の悟りの十のステージ、そして、これ以上学ぶことのない道の最上のレヴェルを説明している。

Ⅱ.敬意

 根本テキストは、恭しい嘆願から始まる。

「マンジュシュリー童子――やさしく誉れ高い永遠なる童子――に敬意を表します!」

 マンジュシュリーは、彼が否定的な乱暴さから解放されているために、「やさしき者」と呼ばれる。そして二重の到着点という果実に恵まれていることにおいて、「誉れ高き者」である。
 彼は、一切のブッダの主であるにもかかわらず、ブッダの子である菩薩の姿で現れたから、永遠なる童子という。
 よって、彼の仕事の冒頭に、彼は、現代の論文の属するところのアビダルマの究極の教えに適合した形式をもって、この挨拶の言葉で敬意を表すのである。

Ⅲ.論文

 この入中論も同様に、三つの要部に分類される。――作者の敬意、論文の本文、そして結論である。

A.作者の敬意

 チャンドラキールティの敬意の表現は、二つの主要項目からなる。
 まず彼は、菩提心の三つの因を確認し、そしてまず最初におおまかに慈悲を称賛し、それから詳細にその分類をおこなっている。

1.菩薩の三つの因

①.以下の三つの要因が、勝者の子である菩薩の因である。
 第一に、一切の衆生を苦しみから救いたいという願いである慈悲の心、
 第二に、存在と非存在の極端を超越したものを見る智慧である非二元的な心、
 第三に、衆生のために覚醒を目指す菩提心である。
 
 
 ラトナーヴァリーにはこう述べられている。

「もし、われわれ――われわれ自身と一切の世界――が、
 最上の悟りを願うべきならば、
 その土台は、
 山の王のように安定した菩提心、
 一切の方角に届く慈悲、
 そして、二元性を超越する智慧である。」

2.大慈悲の称賛

a.一般的な意味での慈悲の称賛

②.チャンドラキールティは、まず初めに一般的な大慈悲を称賛する。
 ――それから彼は、特別な種類の慈悲に敬意を表する。

 大慈悲は、道の初め、中間、そして終わりに重要であると宣言されている。

 まず最初に、愛、というより慈悲は、ブッダフッドという豊かな収穫の芽として重要である。

 またそれは、ちょうど水が苗の育成に不可欠であるように、生成の手段として、中期において重要である。
 それは慈悲のおかげであるから、たとえ悪行をおこない、感謝の念のない数限りない衆生に直面しても、菩薩は決意において減退しない。

 最後に、慈悲は、永続的な幸福の境地へと成熟するから、終わりにも重要である。
 このようなことから、尊者チャンドラキールティは、初めに慈悲への称賛を宣言する。

b.異なる種類の大慈悲への敬意

 それから彼は、まず最初に、衆生のための慈悲を、
 第二に、その対象の無常性のための慈悲を、
 そして第三に、非概念的な慈悲を称賛し始める。

ⅰ.衆生のための慈悲に敬意を表して

③.まず最初に、「わたしのもの」という観念が生起し得る前に、存在するものと仮定された自我への「わたし」というとらわれがある。
 この自我――例えば、わたしの眼など――に関して熟考される一切のものも同様に、真に存在すると仮定され、結果として、それへの執着が生じる。
 それは、あたかも灌漑用の車輪が周回するように、衆生が存在の頂点から最悪の苦痛の地獄に至るまでの輪廻で、どうしようもなく彷徨っていることに起因している。
 チャンドラキールティは、そのような衆生のための慈悲に、敬意を払う。
 衆生が生きているというシチュエーションを表した灌漑用の車輪のイメージは、六つの比喩において適当である。

(1)縄で車輪に結ばれたバケツのように、衆生は、彼らのカルマと煩悩という縄できつく縛られている。

(2)意識の原動力は、水車を回す人のようである。

(3)輪廻は、存在の頂点から衆生が絶えず投げ落とされる最悪の苦痛の地獄――底なしの地獄――に至るまでの深い井戸のようである。

(4)鎖に結ばれたバケツのように、衆生は、大変な努力によってのみ、善趣へと導かれるのに対し、悪趣には自然に落ちて行く。

(5)鎖に繋がれたバケツは、十二縁起――煩悩に結びついている無明、渇愛、とらわれの三つ、カルマに結びついているサンスカーラと生存、輪廻への転生に関する他の七つ――のようである。
 それらの三つのグループについて、第一、第二、あるいは第三というふうに述べるのは不可能である、なぜならば、それらは、空中を旋回する松明のように、お互いが不断に追随し合っているからである。

(6)最後に、三つの苦しみ(苦しみそのものの苦しみ、壊れ去る苦しみ、生の中の一切に広がる苦しみ)は、来る日も来る日も、井戸の中の水に波紋を立て、終ることなく互いを打ち寄せ合っている波のようである。

ⅱ.対象の無常性のための慈悲と、非概念的な慈悲に敬意を表して

④.彷徨う衆生は、風によって乱された水に映る月のようである。
 彼らは、一瞬たりとも同じ状態にとどまらない。
 チャンドラキールティは、彼らに対する慈悲、彼らは無常であり、生来の実在の本性の空によって儚く消え去るのであると見る慈悲に敬意を表する。
 衆生がそよ風によってさざ波を立てられた透明な水に映る月であると言うならば、映像とその水の支えは、常に非永久的であり、その本性において空であるということにおいて類似している。
 この理解をもって、菩薩たちは、衆生が一時的な自我意識という見解の海、無明という広大な闇の河に陥ったと見る慈悲に圧倒される。
 彼らは、衆生が、この海の中で、散漫な思考、非常に多くの害悪の因に動揺し、月のように海に映る善悪の行為の影響に直面しなければならないということを理解している。
 少しずつ時間を追って崩壊していくものとして、衆生を熟考する慈悲は、対象の無常性のための慈悲と呼ばれる。

 生来的実体のない衆生に心を注ぐ慈悲は、非概念的な慈悲と呼ばれる。

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