最勝の善福
【本文】
「私は衆生の頭痛を治そう」と考えても、かような些細な福善の願いによってすら、人は無量の善福の寄るところとなった。
まして、全ての衆生の限りなき苦痛を除こうと願い、全ての衆生に無量の功徳を具えさせようと願う者においておや。
いかなる衆生の父に、また母に、あるいは神々に、リシに、あるいはブラーフマナに、かような善福の願いが生ずるであろうか(菩薩以外には不可能である)。
これらの衆生には、自利のためにさえ、かような希望は、かつて夢の中にも生じなかった。どうして利他のために、それが起こりえよう。
かような未曾有にしてかつ殊勝の宝なる衆生(菩薩)は、どうして生まれ出るか。
世界の喜びの種子であり、また世界の苦しみの救薬であるところの、宝の心(菩提心)の福善は、どうしてはかりえようか。
ただ善福の願求だけでも、仏陀の供養に勝る。まして、一切衆生のあらゆる安楽のために努力するに勝る善福はない。
【解説】
まず一行目、誰か頭痛で苦しんでいる人がいたとして、その人に対してある人が、「私はあの人の頭痛を治してあげたい。治そう」と考えただけでも、その人には無量の善福が生じるという。
これはオーバーな気もしますが、長いスパンで見れば、オーバーでもないかもしれません。つまりそのような小さな善の願いが徐々に増大していき、しまいには多くの善を積み、多くの功徳にあふれた人になっていくでしょうから。
そしてそれと対比する形で、そのような小さな善の願いですら後には大きな果報を生むのだから、「全ての衆生の苦悩を完全に取り除き、すべての衆生に無量の功徳を得させよう」と決意した菩薩に生ずる功徳は、はかることができないほど大きなものだ、ということですね。
ここで一つ、菩提心の意味がまた一つはっきりしてきました。
菩提心とは、「衆生を救うために、私は完全な覚醒を得よう」という勇猛な心ですが、まずその対象は、一切の、すべての衆生であること。
そして、その「救う」ということの意味が、一時的な喜びや、一時的な苦悩からの解放を与えるだけではなく、完全に苦悩から解放させること。そして無量の功徳を得させること。
つまりこれは回りくどい言い方になっていますが、全ての衆生を仏陀にするということに他ならないのではないかと思います。
つまり菩提心とは、「全ての衆生を完全な仏陀にするために、私は完全な仏陀になろう」と決意する心だといってもいいかもしれません。
そしてそのような心は、菩薩以外の者の中には、自利のためにさえ生じないといいます。
自利のためにさえ生じないとはどういうことかというと、完全に苦悩から解放されて、無量の功徳を得よう、という、すなわち完全な完成者になろうという思いが、普通は生じないということです。
つまり、徳を積んで死後、神に生まれたいとか、ある程度の解脱をしたいと思う人は多いけれど、最高完全な解脱を果たし、しかも無量の功徳を具えた完成者になろうという者はまずいないということですね。
しかし菩薩は、そのような思いを、なんと自分のみならず他の衆生にまで向けているわけです。しかもそれは自分の家族とか仲間とか限定された衆生ではなく、全ての衆生に対してです。
このような偉大な菩薩の誕生はまことに稀有なことであって、またその菩提心の偉大さははかり知ることができない、といっているわけですね。
そして「菩薩以外の者の中には、このような心は生じない」という言葉には、トリックがありますね。つまりそのような心が生じたら、すなわちその人は菩薩だということです。
最後に、最後の一文を検討してみましょう。
善福の願求だけでも仏陀の供養に勝るというのは、仏陀に供養することがたいしたことではないという意味ではありません。そのような志なくただ何気なく供養しても効果は薄いということですね。
ここで重要な要素は、「縁」と「徳」と「欲求」と「努力」です。
ある程度の縁と徳があれば、仏陀や聖者とまみえ、供養する機会にも恵まれるかもしれません。
しかしその縁が、真理に基づいた縁でなければ、そこに正しい「欲求」は生じないのです。
仏陀や聖者とまみえるだけの縁と徳があり、かつ正しく善や解脱や衆生救済を願う「欲求」があり、かつ実際にそれに努力精進する素養を持つ。
これらの条件を備えるのは大変まれなことなのです。
しかもその欲求や努力の方向性が、先ほどからあげているような、全ての衆生の完全な安楽、すなわち全ての衆生を解脱させることに向けられているとしたら--その者こそまさに菩薩であり、その者に生じる功徳は、まさにはかりしれないのです。
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