明けましてつれづれと
煩悩を滅した者は、存在しない。
――煩悩を滅したなら、存在と非存在を超えてしまうから。
煩悩を滅するのは、不可能である。
――もともと煩悩など存在していないから。
でも君は、全力で煩悩を滅さなければならない。
――それをしない限り、上記の境地には到達し得ない。
まあ結局、君という俳優は、役にのめり込みすぎているのだ。
成功と失敗の繰り返しのこの世のことわりは、我々を役にのめり込まさせる巧妙な罠だ。
完全なる至福である神に常に心を合わせて生きるなら、役にのめり込むことはない。
怖い奥さんの顔が常に頭から離れなければ、浮気の誘惑に引っかからないように(笑)。
※
でもね、こういったことを、机上の空論ではなく、現実に理解し、悟るには、
エネルギーの上昇や気道の浄化などの条件作りが不可欠だ。
特に暗黒の時代と言われる現代では、外的な要因に心は大きな影響を受けるからね。ハタ・ヨーガやクンダリニー・ヨーガや密教が発達した理由の一つもそこにある。
すべては心である。心がすべてである。心さえ変えれば、心の本性さえ悟れば、オールオーケー。
それは正論ではあるが、現代では実際に心を変えるために、様々な修行が必要なのだ。
徳を積み、戒を守り、教学し、エネルギーを覚醒・上昇させ、気道を通す。これらは方便に過ぎないとはいえ、必要な方便なのだ。
そして最初から最後まで、最も必要なのが「帰依」の実践だ。
ニルヴァーナは存在も非存在も超えているが、
この輪廻の世界も同様に、存在でも非存在でもない。
いや、「~でない」ということもない。
つまりそういった言葉の範疇にさえないのだ。
つまりあえていえば、ニルヴァーナと輪廻は同じである。
外的世界は空性なのである。
そして空性は外的世界なのである。
空性を探し求めるなら
あえて言えば、それは君の目の前にすでにあり、
君から離れたことはない。
※を一回繰り返し(笑)。
ブッダなど存在しない。ある言い方をすれば、存在しないのがブッダである。
では歴史上のブッダや、我々が認識するブッダとは何なのか?
穴である。みんなが存在しているから、存在しないパートができたとき、それは存在しないというそのことによって、その存在が仮想認識される。
偉大なる聖者、偉大なる師、彼らは皆、マーヤーの天井にわずかに開いた、風穴である。
その穴から見えるものは、君の観念の中では、あまり価値のないものに、あるいはときには間違ったものに見えるかも知れないが、侮ってはいけない。その穴のみが、君を救いうる唯一の実質的なキーなのだから。
その穴からは雨や風が入ってくるかも知れないが、逃げてはいけない。その穴をふさいでもいけない(笑)。雨にも風にも負けず、その穴の向こう側をじっと凝視するのだ。
ゲームにはまっている人を目覚めさせるには、ゲームを最後までクリアさせるしかない。
ゲームをクリアできないからと言って、「これはゲームだ」と言葉で言っているだけではいけない。
帰依、菩提心、功徳、戒、懺悔、随喜、回向、忍辱、精進、瞑想、教学、念正智、気道の浄化、気の覚醒と上昇・・・・・・これらが、聖者方がお伝えになった、ゲームクリアの最高の必須アイテムだ。
ということで皆さん、あけましておめでとうございます(笑)。
無明が明けるとは、なんとめでたいことか!
皆さんの無明が明けますように!
すべての衆生の無明が明けますように!
おお、今、明けましたね。おめでとうございます笑。
おお、すぐにまた閉じましたね。ご愁傷様です笑。
常に明けているためには、集中力が必要です。
真髄に対する持続的な集中力を磨くには、煩悩を捨てなければいけません。
最も良いヒントは、「神に心を開き続けること」です。
そのための工夫として、少なくとも4時間に一回とか、1時間に一回とか、いろいろとやるといいと思います。
皆さんの幻の人生が、真理の法と今、少しでもクロスしているならば、こんなにめでたいことはありません。そしてそれはあっという間に過ぎ去ります。だからこのチャンスが稲妻のように過ぎ去る前に、全力を尽くしましょう。余力を残す必要はありません。もしこの生で真理をものにできなかったならば、余力を残しても何の意味もないのですから。
善は急げ。善を繰り返せ。悪を繰り返すな。
そして心を浄化しましょう。全力で。
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