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恐るべきは恐怖

 問題は、「障害」「苦難」「欠点」「弱点」「失敗」「確率」などといった「状況」よりも、
 そこで自分の心に生じる「恐怖」が問題であり、恐ろしいものなのだ。
 その恐怖こそが失敗や苦悩の原因であり、
 実は「状況」そのものには、大した意味はない。
 これらの「状況」は、我々の恐怖をかき立てる悪魔の罠である。
 それは本当は小さく、あまり意味のないものなのに、
 巨大で、どうしようもないもののように自らを見せる。
 そのような罠に、はまってはいけない。
 

 ところで、私はよく、「希望と恐怖を捨てよう」ということを言うけれど、そうするとたまに、「そうすると無気力になりませんか?」という質問を受けることがある。
 その答えとしては――そんなことはない。

 希望と恐怖という重荷を捨てたとき、
 やっと本当の、自由な、生き生きとした、活力がわき出てくるだろう。

 希望と恐怖を捨てたとき、無気力になどは絶対ならない。
 なるとしたら、それはどこか間違っている。

 希望と恐怖を捨てたとき、いても立ってもいられないほどの気力がわいてくるだろう。
 やることが一つに絞られ、それをやらずにはおれない、というシンプルな気力がわいてくるだろう。
 希望や恐怖は、それを邪魔しているものなのだ。

 
 話を戻すと、まず我々は、恐怖を捨てよう。
 恐怖を捨てる作業に入るとき、必然的に、希望も捨てざるを得ないということに気づくだろう。

 どうなったっていいじゃないか笑
 すべてはすでに決まっている。
 結果は神にお任せし、
 自由に全力で生きるんだ。

 といっても、この自己保全の意識から生じる様々な恐怖心を克服することは、普通はなかなか難しい。
 よって聖典を学んだり、ヨーガや瞑想の実践による、自己の心の支配が必要になってくる。 
 もともとそういうことを「ヨーガ」というのだが。

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