怒り
ウダーナヴァルガ
第二〇章 怒り
一 怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とに執著せず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。
二 怒りが起ったならば、それを捨て去れ。情欲が起ったならば、それを防げ。思慮ある人は無明を捨て去れ。真理を体得することから幸せが起こる。
三 怒りを滅ぼして安らかに臥す。怒りを滅ぼして悩まない。毒の根であり、甘味を害なうものである怒りを滅ぼすことを、聖者らは称賛する。修行僧らよ。それを滅ぼしたならば、悩むことがない。
四 怒りたけった人は、善いことでも悪いことだと言い立てるが、のちに怒りがおさまったときには、火に触れたように苦しむ。
五 かれは、恥じることもなく、愧じることもなく、誓戒をまもることもなく、怒りたける。怒りに襲われた者には、たよりとすべきいかなるよるべもこの世に存在しない。
六 或る人にとって力は力であっても、怒ったならば、その力は力ではなくなる。怒って徳行の無い人には道の実践ということが無い。
七 この人が力の有る者であっても、無力な人を堪え忍ぶならば、それを最上の忍耐と呼ぶ。弱い人に対しては、つねに忍んでやらねばならぬ。
八 他の人々の主である人が弱い人々を忍んでやるならば、それを最上の忍耐と呼ぶ。弱い人に対しては、つねに忍んでやらねばならぬ。
九 力のある人が、他人から謗られても忍ぶならば、それを最上の忍耐と呼ぶ。弱い人に対しては、つねに忍んでやらねばならぬ。
一〇 他人が怒ったのを知って、それについて自ら静かにしているならば、自分をも他人をも大きな危険から守ることになる。
一一 他人が怒ったのを知って、それについて自ら静かにしているならば、その人は、自分と他人と両者のためになることを行なっているのである。
一二 自分と他人と両者のためになることを行なっている人を、「弱い奴だ」と愚人は考える。――ことわりを省察することもなく。
一三 愚者は、荒々しいことばを語りながら、「自分が勝っているのだ」と考える。しかし謗りを忍ぶ人にこそ、常に勝利があるのだ、と言えよう。
一四 ひとは、恐怖のゆえに、優れた人のことばを恕す。ひとは、争いをしたくないから、同輩のことばを恕す。しかし自分よりも劣った者のことばを恕す人がおれば、それを、聖者らは、この世における<最上の忍耐>と呼ぶ。
一五 集会の中でも、また相互にも、怒ってことばを発してはならない。怒りに襲われた人は、自分の利益をさとらないのである。
一六 真実を語れ。怒るな。乏しきなかからでも自ら与えよ。これらの三つの事を具現したならば、(死後には天の)神々のもとに至り得るだろう。
一七 心が静まり、身がととのえられ、正しく生活し、正しく知って解脱している人に、どうして怒りがあろうか?はっきりと知っている人に、怒りは存在しない。
一八 怒った人に対して怒り返す人は、悪をなすことになるのである。怒った人々に対して怒らないならば、勝ち難き戦いにも勝つことになるであろう。
一九 怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言にうち勝て。
二〇 怒ることなく、身がととのえられ、正しく生活し、正しく知って解脱している人に、どうして怒りがあろうか?かれには怒りは存在しない。
二一 怒らぬことと不傷害とは、つねに気高い人々のうちに住んでいる。怒りは悪人のうちにつねに存在している。-山岳のように。
二二 走る車をおさえるように、ここでむらむらと起る怒りをおさえる人――かれをわれは<御者>とよぶ。そうでなければ、この人はただ手綱を手にしているだけである。(<御者>とよぶにはふさわしくない。)
以上第二十章 怒り
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