心の湖
仏教では「止観」、つまり「寂止(サマタ)」と「正観(ヴィパッサナ)」というわけだけど、正確に自分の心を見つめる、あるいは宇宙の情報を得るには、まず心が寂静で静まった状態が必要なんだね。
よくね、インスピレーションとか、気づきとか、自己観察とか、あるいは神とか宇宙とかからのメッセージとか示唆を受けたとかね、精神世界では言うよね。いや、精神世界じゃなくても、日常でも、そういうのを大事にする人はいる。
しかしその情報がどれだけ正確かということだね。
わたしたちの心というのは、たとえばここに湖があってね、その中がかき回されている状態だ。
そうなるとどうなる? 湖底の泥とかがね、ぼあっと、グジャグジャに浮いてね、何も見えないんだよ。
これが無明だね。
この泥っていうのは、経験の情報とでも言えばいいだろうか。それが整理されない状態で、心の湖にぼあっとグジャグジャに広がっている。
この状態で、正確な智慧や、情報を得ることはできない。
だからまずはね、心を静めることが重要なんだ。
たとえばヨーガ修行を続けているとね、最初は瞑想なんて、気が散ってぜんぜんダメだったのがね、5分、10分、30分、1時間と、楽に座れるようになってくる。背筋をぴんと伸ばしてね。
つまりこれは心が整理され、寂静になってきてるんだ。
寂静と無智は違うよ。ただボーッとして、無智のまま時間が過ぎる、これじゃダメだ。
じゃなくて、非常に気持ちが良く、クリアな意識で、長く座れる状態だね。
わたしのヨーガ教室でもよくあるんだけどね、瞑想してて、はい、時間です、と言うんだけど、生徒さんが、なかなか瞑想から起きてくれないんだよ(笑)。気持ちよすぎて、瞑想をやめたくなくてね(笑)。
こういう感じで、心を静めていくとね、つまり湖にグジャグジャに浮かんでいた泥がだんだん沈んで、湖が非常にきれいな水の状態になる。そうするとね、たとえば、あ、この湖の底には、こんなゴミがあったのかとか、あるいはこんな宝物があったのかとか、そういうことが分かってくるんだ。そしてそれは正確な情報になる。
つまりそうでない場合は、私たちが見ているのは、整理されない心の泥に覆われた、幻影に過ぎないということだね。
だからまずは心の静寂な状態を目指しましょう。それにはヨーガの技法や、マントラとか、いろいろ方法はあるね。あるいはもちろん、日常生活において、心の持ち方に気をつけることも必要だ。
あるいはね、しっかりと気道を通して、体中を神聖なエネルギーで満たせば、自然に静寂な状態がやってくるよ。この静寂というのは、空虚な、弱弱しい静寂じゃなくて、なんていうか、満たされた感じの、充実した静寂だね。
そう、そもそも静寂っていうのは、充実してるんだよ。わたしの体験ではね。充実してクリアで生き生きとした心の状態。この状態の中で、いよいよ心の探求、あるいは宇宙の探求をしていくんだ。それが瞑想だね。
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