徹底の必要性
ヨーガスクール・カイラス 勉強会より 抜粋
バガヴァッド・ギーター 勉強会
「第3章」
2007・1・17
※いずれ全文をまとめて本にする予定ですので、ご期待ください。
◎徹底の必要性
【本文】
『バーラタ王の子孫よ! 無明なる者は果報を求めて行為をするが、賢者は、ただ世の人々を正しく導くため、何事にも執着せず活動しなければならぬ。
果報に執着して行動する無智な者たちの心を惑わせてはならず、彼らがあらゆる行為を奉仕の精神でやるように、賢者はしっかりと導き励ましてやらねばならぬ。
あらゆる行為は、生来のグナによってなされるのだが、真我が我執によって惑わされている者は、【私がなしているのだ】と思い込んでしまう。
だが、偉大なる勇者よ! グナと行為をよく知る人は、自分の感覚が対象を求めているだけであって、真我はそれにかかわってはいないと達観する。
生来のグナに惑わされ、世俗の人はグナによる活動に執着する。
たとえそれが明智が欠けているためだとわかっていても、賢者は彼らの心を不安にさせてはならぬ。
すべての行為を私にゆだね、いかなる欲望も所有意識も放棄し、真我に心をしっかりと定め、心乱されることなく、勇ましく戦いなさい!
私のこの教えを信じ、あら捜しをすることなく、誠実に行動する人は誰でも、カルマの鎖から解放されて自由になる。
だが私の教えをけなし、これを実行しないものは、無知蒙昧となり果てて、破滅の淵に沈むことであろう。 』
(松川)はい。まあ、この辺はまた――わかるよね? わかるよねって言うか……(一同笑)。まあ多分皆さんはわかると思います(笑)。
このあいだヨーガ・スートラでも言ったし、さっきも言ったけども、真我とグナっていうのがあって、このグナっていうのは仏教的にいうと縁起によるカルマの流れと言ってもいい。その縁起によるカルマの流れをわれわれは自分だと思って、われわれの本質がそれにとらわれてしまう。
まあ、それは仏教的比喩を使えば、本来透明で一切汚れてない水晶に、その前に何かが現われ、水晶にそれが映りましたと。で、その水晶が、自分がそれになってしまったと勘違いしてしまうんだね。これが真我とグナの関係です。で、そこで我執。つまり「これは私だ」っていう我のとらわれ。我執が生じてしまうと。そしてその人はその我執によって、どんどんどんどん悪しきカルマの輪に巻き込まれ、苦悩の中に放り込まれてるわけだね。
だからここで、さっきからずーっと言っているように、「いかなる欲望も所有意識も放棄し、全ての行為を完全なる神に捧げなさい」と。「そして全力で生きなさい」と。「私のこの教えを信じ、あら捜しをすることなく、誠実に行動する人は……」
これはすごく重要なとこだね。つまりこれはもう本当に純粋な信仰の重要さを説いてる。
私は実は数年前、あることを悟った(笑)。それは何かっていうと――私はもともとね、どっちかって言うと論理的思考が好きだったんだね。つまり教えを論理的に組み立てて、悟っていくようなのが好きだったんだけど、あるとき瞑想してて気づいたんです。
「純粋な信仰には論理はいらない」と。
「汚れた疑念があるから論理が登場する」と(笑)。
これは皆さん「え?」って思うか、「そうだな」って思うかは皆さんそれぞれだろうけど、本当に純粋な信っていうのは、エゴを超え、論理も超え、ただあるんだね。そこにね。で、そこで疑いの心とか、あるいは――ここで言う疑いっていうのは、進歩的な疑いじゃなくて、エゴによって生じる、さっきから言ってる利己的知性。エゴイズムに基づいた知性といわれるものによって、われわれは純粋な信から遠ざかり、自分であーだこーだ考えようとする。
考えようとすればなんだって考えられるよ。例えばここでのバガヴァッド・ギーターでクリシュナが「こうだ!」って言ってることに対して「ちょっと待って」と。「それはこうじゃない、こうじゃない」って言えば、どんなことだって言えますよ、それは。でもそれは、その前に、自分は、お前はなんだと(笑)。ね。つまり君は何がしたいんだと。私は悟りたい。なぜ悟りたいかというと、「自分は徹底的に無智であって、徹底的にカルマが悪くて、苦悩の中にいるんだ」っていう最初の認識がなきゃいけない。この認識がしっかりできていたら「さあ私に光を与えてください」と。ね。「私に光を与えてくれる完全なる神の言葉は全てまず受け入れましょう」と。こういう純粋な信仰の気持ちがでるんだけど、傲慢さがあると、自分の考えとかあるいは自分の論理で、神の言葉、もしくは経典の言葉っていうのを、その概念の中に入れたがるんだね。こっから間違いが始まるんだね。
だから――ちょっと実践的なこと言うと、われわれにまず最も必要なのは懺悔です。懺悔っていうのは、日々瞑想によって自分の過去を振り、自分の過去の悪い行ないはもちろんそうだけど、それだけじゃなくて、自分の心の汚れ――これを一つ一つ、神や仏陀に懺悔する。これを真剣に何ヶ月か、あるいは一年でも行ったならば、どういう状態になるかっていうと――「俺はどうすればいいんだ!」と(笑)。こんなに汚れの集積、汚れのかたまりの、悪しきカルマが多すぎると。なんとか私は光明を見出したいという、ものすごいすがるような気持ちになる。
これによって純粋な信仰が生まれます。ただ、日本人は、私は思うのは、信仰というものをちょっと間違ったイメージで捉えがちなんだね。それは弱いものがするもの――実はね、なんでこういう話をしてるかと言うと、私がそうだったんです。私は昔、ヨーガ修行とか始めたとき、ヨーガはもちろん好きだったんだけど――なんで私はヨーガが好きだったかって言うと、もともと私はね、さっきも言ったように、野球が好きだったり格闘技が好きだったりして、自分を鍛えるのが好きだったんだね。ヨーガっていうのも、自分を鍛えていく道じゃないですか。鍛えて悟りに向かうっていうのが好きだったんだけど、そうじゃなくて一般にいわれる宗教とか、あるいはバクティ・ヨーガとかの信仰の道っていうのは、なんかこう心の弱い人が逃げ道として、そういうところに入って、自分では努力しないですがってるみたいなイメージがあったんだね。
だから「いや、そういうのはちょっと俺は嫌いだ」と。俺は自分の力で切り開いていくっていうのが好きだって思ってたんだけど、段々そういう修行を進めていくと、信仰の本当の意味に気づいてきた。
「あ、俺が信仰と呼んでいたものは間違っていた」と。
「本当の信仰っていうのは非常に純粋であって、それは全く否定されるような汚れはなくて、素晴らしいものなんだな」
っていうのがわかってきた。
こういう話をして皆さんの感じるところっていろいろあると思うけども、私はそういう経験があったわけだね。
だからここで言ってることっていうのも、すごくそういうふうに感じる。
まあ、もちろんその前段階でだよ「君はこの道を歩みますか?歩みませんか?」っていうのはあるかもしれない。
もし皆さんがバガヴァッド・ギーターに基づいて、それを受け入れ「さあ修行しよう」と思ったら、このクリシュナの言葉に一切――ここでは「あら探し」って書いてあるけども、利己的な言い訳とか、疑いをさしはさんではいけない。とにかくそれを全力で実践すると。ちょっと極端な話すればですよ。全力で実践して間違ってたってわかったってそれでいいじゃないですか。とにかく全力で実践するんです。全力で実践して、そして答えを得るんだね。
これは仏教とかでも同じで――結局ね、教えっていうのは全力で実践して答えを見出さないと駄目なんです。例えば「日々正しい言葉を語って、悪口を言わなかったら、言葉のカルマが非常に綺麗になりますよ」と。声がきれいになって――まあ、言葉の世界っていうのはイメージの世界でもあるから、皆さんの夢見がよくなりますよ、とか。まあそういう例えば教えがあったとして、「本当かな?」と言う前にやってみろと。で、全力でそれをやれば必ず答えが出る。それは正しくそうなるかもしれないし、ならないかもしれない。でもなったとたらそれはその人にとっての経験であるし――こういう形で、さっきから言ってるけども、一つ一つのことを全力で達成しようという気持ちがないとだめなんだね。
だから本当はね、これもいつも言ってるけど、修行っていうのは――最高の理想は、一つのことを徹底的にやるんです。そういうのは現代人には合わないんだけど――例えば五体投地の礼拝の修行があるとしたら、本当はそれだけを毎日やるんです。それによってわかってくる。わかってくるっていうか効果が現れてくる。でもそれはそうじゃなくて、例えば――まあ一時間、二時間ってやっただけでもかなり効果がでてきます。でも10分やって「よし、五体投地」とか言って、次の日も五体投地10分やって、そうすると「ああ、五体投地つらいなあ」と。それしかないんだけど、一時間、二時間と継続することで、その五体投地が持っている本来の意味とかが経験できるようになってくる。他のマントラとかもそうだけどね。
ただそれはもちろんその人のカルマとかその人の状況とかあるから、全ての人がそうしなきゃいけないわけじゃないけど。そういうなんていうか、徹底的に疑念をさしはさまずに、やるんだったらやると。
私いつも言うけどさ、疑うくらいだったらやんなきゃいい。やるんだったら疑うなと(笑)。ね。疑うくらいだったらやめればいいし、つまり半信半疑でやるぐらいだったら、全力で、少なくともそれをやる間は、全神経をそこに集中してやれと。そうじゃないと人生がもったいない。特にこの形而上的なね、修行とか精神世界のことに関してはね。
で、もちろん何度も言うけども、その前提として、神への誠実さっていうのが必要なのは言うまでもない。つまりその全力でやるからには誠実に、何が本当に神の意思なのかっていうのを読んでやらないともったいないからね。
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