山のダルマ(18)
瞑想における過失について説明しよう。
無気力や怠惰のときには、機敏な意識を喚起させる必要がある。
心が散漫で興奮しているときは、深く内側にリラックスさせるべきである。しかしこれは、流動する不安定な瞑想の心で無理やり行なってはならず、むしろ、ただただ心の本性を思い出すことによってリラックスすべきである。この認識を、食べているとき、眠っているとき、歩いているとき、座っているときなどのあらゆる状況で、そしてどんな活動をしているときも、瞑想時間もそのインターバルの時間も、連続して持続させるのである。
幸福、悲しみなどの何らかの感情的にけがれた思考が生じても、期待も恐怖もせず、それらを拒否することも大事にすることもせず、それらを対抗手段を用いて無効化しようともせず、すべての思考をそのままにしておきなさい。生じてくる苦楽の感情はすべて、けがれなき、原初の、新鮮で、鮮明なその真の本性の中に放置しなさい。そうすれば、今に分かる――あなたは常に中心点に戻るであろう。だから、さまざまな心理学の理論で頭を悩ませるな。
また同様に、これも覚えておきなさい。好ましくないジャッジを下す思考と感情への対抗手段として、空性の見解に焦点を合わせる必要はない。思考と感情は、それらが純粋なる実在と同一であると見極められると同時に、蛇が体のもつれを解くように、反射的に解放される。
最近ではあらゆる人が、ウーセル・ドルジェ・ニンポ(光明のヴァジュラの心)という言葉の隠された究極の意味を言葉で表わす方法を知っているが、実際の経験がなければ、その長たらしいくどい説明は、単に鸚鵡がペチャクチャと言葉を繰り返しているようなものである。だから、われわれは非常に非常に非常に恵まれているのだ!