山のダルマ(16)
第二に、ゾクチェンの見解についてのすべての疑念や誤認が消え去ったら、その見解を持続させなさい。それが瞑想である。心の中で対象を観想したり、思索をしたりするような瞑想はすべて忘れなさい。その種類の瞑想は何もやってはいけない。上記に説明した見解を強く維持したまま、五つの感覚の門口にあるすべての認識の自然の流れの中で、くつろいでリラックスしていなさい。
一連の過程の特定の側面を見極めようとしているような二次的な知的注釈書を見て瞑想することは、瞑想ではない。それは単なる知的活動である。実は、瞑想などというものは存在しないのだ。瞑想のプロセスなど存在しないのだ。しかし、不注意の状態を放任してはならない。自己認識からそれることが、真の迷妄である。だから、何かに気を取られるな! どんな思考が生じても、生じるがままにしておきなさい。それらを追いかけてもいけないし、遮断しようとしてもいけない。
では、何をすべきなのか? どのような客観的な感覚のデータが生じてこようが、その現われは単なる現象であって、とらわれるようなものではないのだが、実は本当のことを言うと、心はずっと、原初の生き生きとした新鮮な経験を思い続けている。まるで、不思議なお寺の中に入った子供が、視線をひと時もどこにも固定せずに、ずっとキョロキョロしているかのように。瞬間瞬間立ち現われる心の現象は、それ自体の場所、歪められていないそれ自体の形、変化してないそれ自体の色、変わっていないそれ自体の輝きの中にとどまっている。さらに、感覚の印象を欲望的思考が混じらないように保つことで、心のすべてのヴィジョン的現われが、輝ける空性の裸の非二元的意識として生じる。
智慧の修行が遅れていたり、智慧の能力が劣っている人々は、これらの”深く、スケールの大きな”教えを聞いて混乱するかもしれない。仮に彼らのために、わたしがこれらすべての教えを要約して一つの独創的なヒントにまとめるなら、こう言うだろう。
――一つの思考が断ち切られ、次の思考が始まるまでの間の隙間に、”ありのまま”の認識という不変の瞬間がなかったであろうか? それは澄み切った裸の意識である。ホー! それは間違いなく純粋なる実在そのものである! そして、あなたがその純粋なる本質の空間にとどまることができなかったから、必然的に思考が生じたのではないか? その思考は純粋なる実在の創造的表現である! 思考の本質を認識できなくなると、その瞬間に思考が生じ、それが増殖して、輪廻の源であり、『迷妄の連鎖』とも呼ばれる、散漫で一方的な批判的判断を下す思考となる。思考の始まりの思考を認識し、それを追いかけることなく、ただなるがままにさせておくと、どんな思考が生じても、それは純粋なる実在、ダルマカーヤの空間へと自然に解放されるのである。
その瞑想の中では、テクチューの見解と瞑想という撚り糸が互いに絡み合い、ゾクチェンの瞑想の土台を構成する。アーディグル・ガラップ・ドルジェ(プラヘーヴァジュラ)は、こうおっしゃっている。
”今”という純粋なる空間の本質から突然生じる、
純粋なる実在の瞬間的想起、
それは、海の底で宝石を見つけるようなもの。
これは、誰かによって作られたものではない、ありのままのダルマカーヤである。
昼夜たゆまず、取り乱すことなくこの経験を持続させることで、経験的リアリティである空性、純粋なる実在は、われわれの家となる。