履き違えてはいけない
動物的自由を、魂の真の自由とか、シャーンティというものと履き違えてはいけない。
動物的自由は、習性に基づいた欲望の自由に過ぎない。
習性に基づく欲望から解放されないと、真の自由はやってこない。
それはもっとクリアで、生き生きとした自由なのである。
動物的平安も、それはただの無智に過ぎない。
シャーンティとは、無智や欲望や後天的習性から解放された、宇宙の秩序との一体感である。
愛情や愛着を、真の愛と履き違えてはいけない。
愛着があると、真の愛は育たない。
愛着は自己中心癖から来るものであり、真の愛は自我の放棄から来るものだから。
人間の観念から来る平等を、真の平等心と履き違えてはいけない。
神の愛のもと、カルマの法則のもと、すべての魂は本来、平等なのである。
それぞれのカルマ、与えられた課題の中で、全力を尽くすこと、尽くさせること、そして最後にはそのカルマさえも乗り越えることが重要である。
書物や哲学による知識を、真の智慧と履き違えてはいけない。
智慧とは、外的な知識ではない。
心の本性から直接やってくる光そのものである。
時には知識が智慧を妨害することもあるのだ。
だから自己の心を磨き、エゴを滅し、愛を発すること。それが智慧の獲得の早道だ。
単なるエゴの習性から来る潜在意識の叫びを、魂の本質的なメッセージなどと言ってはいけない。
それは単に、心の奥底に眠る汚れた情報を、きれいに飾っているだけだ。
魂の本質が望むことは、エゴという牢獄からの解放だけだ。
エゴという悪魔は、優しい言葉や美しい姿で近づいてくる。
真理の神は、時には厳しい姿や言葉で現われることもある。
だから見間違わないように、失敗しないように、
謙虚に自己を律し、自己を常に反省し、
友よ、死ぬまで真理の道を求め続けよう。