四無量心の瞑想
5-1 四無量心の瞑想 その1 慈愛
慈愛とは、すべての衆生の幸福を願う心です。
ここで重要なのは、「すべての衆生」ということです。つまりそこには、一人の例外もあってはいけないのです。
もし嫌いな人、苦手な人などがいるとしたら、そういう人にこそ、この慈愛の心を向けるようにします。
また、幸福を願うといっても、いったい幸福とは何なのかという問題があります。
ここで願わなければならない幸福は、時とともに壊れさる一時的な幸福ではなく、壊れない究極的な幸福、すなわち解脱です。
つまり、すべての衆生が解脱を果たし、究極の壊れない幸福を得てほしい、ということを、繰り返し繰り返し考えるのです。
そして、そのために自分は何ができるのか、究極の幸福とは何かなど、さまざまに思索を広げていくのもよいでしょう。
ところで、この四無量心の「四つの無量の心」という意味は、慈愛・哀れみ・喜・捨の四つをあらわしているわけですが、もう一つの意味として、
1.対象の無量
2.期間の無量
3.功徳の無量
4.智慧の無量
という四つの無量もあらわしています。
対象の無量とは、前述のように、一人の例外もなく、すべての衆生を対象とするということです。
そして期間の無量とは、一時的に慈愛の心を持つのではなく、実際にすべての衆生が究極の幸福に達するまで、その慈愛を持ち続けるということです。
功徳の無量と智慧の無量とは、実際にすべての衆生を究極の幸福に導くために、自分自身が、無量に功徳を積みつづけ、無量の智慧を身につけようという決意です。
これらについても考えるようにします。
5-2 四無量心の瞑想 その2 哀れみ
哀れみとは、すべての衆生が苦しみから解放されてほしいと願う心です。
これは慈愛とセットで行なってもかまいませんが、ここではより衆生の様々な苦しみに目を向け、なんてかわいそうなんだろう、なんとかして救いたい、そのためには自分が身代りになってもいいし、自分にできることなら何でもしたい、という思いを強く修習するようにします。
そしてここでも、なぜ衆生は苦しんでいるのか、どうしたら彼らを救うことができるのかなど、思索を広げていくのもよいでしょう。
5-3 四無量心の瞑想 その3 喜
喜とは、すべての衆生の長所や進化を喜ぶ心です。
小さなことから大きなことまで、周りの人々の、善や進歩を喜びます。
たとえば、あの人はいつも笑顔でいて素晴らしいなあ、あの人はいつも教えを学ぼうという姿勢があって素晴らしいなあ、というように、周りの人々の中に少しでも善を見出し、それを見習おうという謙虚な心を持つようにします。
そしてさらには様々な聖者やブッダのことも考え、彼らの徳を称賛し、喜びます。
このように、周りの友人からブッダに至るまで、小さなことから大きなことまでさまざまな善を見出し、称賛し、喜び、見習おうと考えていく瞑想です。
5-4 四無量心の瞑想 その4 捨
四無量心の最初の三つは、他者の幸福を願い、他者の苦悩を哀れみ、他者の善を喜ぶ、ということでしたが、最後の捨は、今度は自分自身の幸福と苦悩に関する問題です。つまり、他者の幸福や苦悩に対しては強く心を動かさなければならないわけですが、自分自身の幸福や苦悩に関しては、一切とらわれることなく、そこにこだわる心を捨てるのです。
未来に対して、幸福になりたいなという期待、苦しみたくないなという恐怖を捨てるようにします。
過去に対して、幸福であったことへのこだわり、苦しめられたことへのこだわりを捨てるようにします。
そして今現在、どんな幸福や苦悩の中に自分がいるとしても、そのどちらにもとらわれることなく、無頓着であろうと考えます。
これらは実際に自分の人生を観察して、リアルに考えていくとよいでしょう。
つまりまとめると四無量心とは、他者の幸福を願い、他者の苦悩を悲しみ、そして自分の苦楽に関してはどうでもよく、また他者の善を喜び、称賛し、見習おうという心です。
これらについて、繰り返し考えていくと、その四無量心の心の状態からくる、何とも言えない、すがすがしく歓喜に満ちた、安定した心の状態がやってきます。
そうしたらその心に集中し、没入します。これに成功すると、「四無量心のサマーディ」に入ることができます。