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勉強会講話より「解説『母なる神』」第四回(9)

(T)すいません。わたしはなんか痛い話とか、痛いことを想像するのがすごい苦手なんですけど、この間も先生が勉強会のときに、カミソリで舌の裏側を切った話をしたときに、すごい怖くて、我慢できなくて、先生の話なのにずっと耳を塞いでたんですけど。もう我慢できなくて。そういうのってちょっとずつそれを想像して、慣れた方がいいんですか?

 そういうのに慣れた方がいいとは言わないけども……まずね、話が若干ずれるけども、ちょっと関連して言うとね、一つはそれは地獄のカルマです。つまり、痛みに弱いカルマって地獄のカルマなんだね。ただ逆もあって、逆に、そういうの好きな人いるよね。これも地獄のカルマです。どっちも地獄のカルマ。つまり、好きな人っていうのは、猟奇的な映画とかね、あるいは体を切り刻むイメージとかをいつもイメージするとかね。あるいはそういう映画とか映像が好きな人っていますよね。あれは逆に非常に地獄のカルマが強い人です。で、もう一つのパターンは、そうじゃなくて、すごくそういうのが嫌だと。ちょっとでも想像すると苦しいと。これも地獄のカルマです。だからどっちも越えなきゃいけない。で、ただ、今のTさんに当てはめて言うと、そのパターンを越えるときっていうのは、別にわざわざそれに強くなるっていうよりは――いいですか?――菩薩として、つまり、「もし必要ならば自分がみんなのそれを背負えるようになろう」ということを、少しずつでいいから、自分の中に覚悟として入れていったらいいかもしれない。
 つまり、具体的に言うとね、例えば今、隣でね、S君が誰かに体を切り刻まれてたとしてね。これはリアルに考えてもいいよ。例えば、ガッと――まあこういうこと言うと、また「あー」(耳をふさぐ動作)ってなるかもしれないけど(笑)。

(一同笑)

 S君が、昔の中国の拷問みたいにね、体を切り刻まれて、例えば指の先から、切れにくい刃物でちょっとずつ切られると。で、血が噴き出ると。ね。で、気絶したらまた水でもかけられて目覚めさせられる。まあ実際、そういう拷問が昔あったっていう話だけど。そういうのをやられてたとしてね、で、それを、「肩代わりできるだろうか?」と考えるわけだね。で、しなきゃいけないわけです。しなきゃいけないっていうか、実際にできるかどうか別にして、「できる! したい!」ぐらいの気持ちに、菩薩道としてはならなきゃいけないんだね。
 で、わたしも実は昔そうだった。昔、これも前話したか分かんないけど、そういう発願があったんですね。発願っていうのは、「わたしはみんなの苦しみを背負いたい!」と思ってたんだけど、自分の心をいろいろ見つめていくと、まだできないって分かってきた。今言った話みたいに、例えば――皆さんもリアルに考えてみたら難しいでしょ? 例えば隣で目玉を刃物でグリグリやられてる人がいたとしてね、「おれ代わります!」っていう人って、そりゃすごい人だよね(笑)。うん。そこまでできたら相当すごい。人によってさ、「ウワッ!」ってなるポイントって違うと思うんだけど、でもまあ自分が本当に「これは嫌だ!」っていうのがあるとして、それを肩代わりできるかっていうのは非常に難しい。でもお釈迦様の過去世の話とか、菩薩の理想としては、どんな苦悩を誰かが負っていたとしてもね、それを自分が肩代わりできるぐらいの――まあ慈愛ですよね。慈愛っていうか、勇気っていうか。あるいは覚悟っていうかな、それがなきゃいけませんよと。
 でももう一回言うけども、現状では多分非常に難しいことが多いでしょう。例えば……そうだな、例えば配られたお菓子が少ない人がいるから自分のと交換してあげるとかね、それぐらいはできるでしょう(笑)。ね(笑)。あるいは、上司に怒られるのを肩代わりするとかね。それぐらいはまだできるよね。でも、「いやあ、目玉くり抜かれるの肩代わりしろって言われたら、ちょっと考えてしまう」と。でも、何度も言うけども、できなきゃいけないんです。もしそのような状況があったらね。「わたしが代わりにくり抜かれます」って言えるぐらいじゃないといけないんだね。じゃあ、この理想と現実のギャップをどうするか。まさにそれは少しずつ埋めていくしかない。それはいろいろ考えてもいいし、いろいろ思索してもいいし、あるいは日々の小さなことから人の苦悩を自分が受けたりとか、あるいは、まあさっき言ったお菓子とかの話でもいいんだけども、自分の楽と他人の苦を交換する訓練を少しずつするとかね。あるいは地道にトンレンの瞑想をし続けてもいい。それによってちょっとずつ、できなかったことがだんだんできるようになってくるんだね。前は「どうしてもこれは無理だろう」って言ってたのが、「あ、もしかするとできるかな?」っていう感じになってくるっていうか。だからその方面でやってください。
 だからただ単純に、いろんな苦しい話に耐えられるようになるっていうんじゃなくてね。菩薩として、みんなのそういうのも背負えるようになるっていう方向性で自分を訓練していったらいいね。

(T)分かりました……。なんかカミソリの話が怖いんですけど。

 あ、カミソリが怖い? それはカミソリ地獄にいたのかもしれない(笑)。
 でもそうなんですよ。大体ね、さっきのゴキブリもそうだけども、「怖い」っていう発想が出るっていうのは、まあつまりその輪の中にいるんだね。つまり、自分もそれをやったことがあるし、やられたことがあるんです。だからそれがあるから、恐怖心が出るんだね。だって輪から外れてたら全然怖くない。まあ無智で怖くない場合もあるけども。いいですか?
 だからそれは、もう一回言うと、それは二つの観点から考えた方がいい。一つは今言った、菩薩行として、「自分はみんなのそういうのも譲り受けられるようになんなきゃいけないんだ」っていう意味で鍛えていくと。
 で、もう一つは、そういうのがもしほかの人よりも極端にあるとしたら、それは自分の中にそういう地獄のカルマがあるんだと。だからそれは、さっきは動物っていう話をしたけども、今度は地獄っていう観点から、自分のカルマを乗り越える。これもいろいろありますよね。もっと慈愛を持つとか、あるいは――そうですね、蓮華座であるとか――つまり無理にやる必要はないんだけど、修行で自然に生じるいろんな浄化であるとか、そういった肉体のいろんな苦しみに耐えるとかね。「あ、これはわたしの地獄のカルマが落ちてるんだ」って考えるとか。あるいは、もちろん悪口とかも含めてね、つまりいろんな意味で自分が傷つけられることを喜んで耐えるとか。そして自分は一切――まさにアヒンサーね。つまり一切、人を害するような考えや言葉や行動を一切しないと。こういうことによって地獄のカルマを乗り越えるということを考えていったらいいね。

(T)分かりました。ありがとうございました。

 はい、ほか、何かありますか?

(M)ちょっと今の話聞いて思い浮かんだんですけど、わたしも逆に、身近な親戚の子供とかを見て、「かわいい!」って思った後に、その子が車でひかれるヴィジョンとか考えちゃうんですよ。そういうふうに残虐なヴィジョンが思い浮かぶっていうのは、何なんですか?

 それも地獄のカルマだね。で、それはね、結構みんなあります。さっきから言ってるように、自分の中にいろんな自分がいて、その情報があるんだね。だからさ、本当にいろんな自分があるんですよ。例えば、Mさんが来世ね、地獄に生まれる可能性も何割かありますよ。で、何割かあるけども、今人間ですよね? これ皆さん分かると思うけど、仏教では六道っていって、地獄・餓鬼・動物・人間・阿修羅・天とあるとして、で、みんなこの六つのカルマを持ってます。六つのカルマを持ってるけども、ある一つの世界に来たら――つまり人間界なら人間界に来たら、特に人間的な部分がグッと集約されるんだね。ちょっとほかのカルマは眠ってるっていうか。ブワーッて人間的な部分だけが表面に出てくるんですね。で、ほかのカルマは眠ってるけどあるわけですね。で、それがフッとこう出てきたりする。
 で、もう一回言うと……多分誰でもあります。特に最初のころね。修行始めて最初のころっていうのは、なんかこう否定的な――否定的なっていうか、残虐なっていうか、情報がバッて出てきたりする。で、それはまさに自分の中の地獄のカルマのあらわれなので――残虐だった場合ね。それは徹底的に断つと。それもだから一つ一つ念正智して、もちろんそういうのが出ないようにするのも大事だし、それからね、あとはまあ教学をし続けたりとか、地獄のカルマがあるってもし認識したらね、逆に言うとさっき言った慈愛のイメージ、あるいはトンレンのイメージ、あるいは菩提心について考え続けるとか。それによってだんだんだんだん――情報なんでね――その水が薄まるように、だんだんだんだんそれは出づらくなってきます。
 だからそういうのをみんなバロメーターにしたらいいんです。で、それを真剣に考えたらいいんですよ。真剣に考えるっていうのは、たまにそのような、例えば残虐なイメージが出るとしたら、「あ、かなりわたしの中に地獄のカルマがあるんだな」と。「眠ってるだけで、ふとした瞬間に出るぐらいに、もう本当に充満して、発現を待ってる地獄のカルマがあるんだな」と。「これをほっといたら大変である」と。だから逆に言うとね――いいですか、逆に言うとですよ、頑張っても出ないようなぐらいになってちょうどいいです。「くそー! あいつをなんとか、ウーッ……イメージできない!」――こういう感じだね(笑)。

(一同笑)

 「あいつを残虐、残虐、こうして、こうしてやってやるかー!……何も思い浮かばない!」っていう感じだね(笑)。

(一同笑)

 これぐらいなったら最高(笑)。でもそうじゃないんだね、みんなはね。そうじゃなくて、逆に、思い浮かべようとしてないのに、残虐なイメージが出ると。あるいは、思い浮かべようとしてないのに、例えば人によっては性欲が強い場合ね、性的なイメージがパッと出ると。あるいは、いろんなくだらない遊びのイメージがパッと出ると。こういうのはもう本当に内側でフワフワと充満してるデータがあるんだね。だからそれが、何度も言うけども、思い浮かぼうとしても思い浮かばないくらいに、どんどん切っていったらいいね。いいですか?

(M)ありがとうございました。

 あとね、前わたしがよくやったのは、前も言ったかもしれないけど、チューの瞑想ね。チューの瞑想って今回合宿ではやらなかったけど、前の合宿でやったことがありますが、自分のエゴを切り刻む。その象徴として、自分の体を切り刻んで神に捧げるとかね――そういう瞑想があるわけですけども、これはオッケーです。これはつまり、残虐なっていうんじゃなくて――これはね、ちょっとまあそうだな、一つのアドバイスです。全員がやらなくてもいいけど、もしやりたい人がいたらやってください。もしそのような残虐なイメージが浮かんできたら、自分をそうしてください、人じゃなくて。自分を完全にバラバラにするイメージをして、で、それはちゃんと意味を持たせてね。単にバラバラにするんじゃなくて、「これによって自分の自我を破壊してるんだ!」と。自我を破壊してるっていうイメージでバーッて自分をバラバラにして、で、それを神や衆生に捧げるとかね。そういうイメージもいいね。これは変容のパターンね。つまりイメージを消すんじゃなくて、利用して、逆の効果を生もうとするっていうかね。

 はい、ほか何かありますか? ではなかったらこれで終わりにしましょう。お疲れさまでした。

(一同)ありがとうございました。

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