勉強会講話より「解説『ナーローの生涯』」第二回(3)
◎悪臭を放つメス犬
【本文】
とある狭い道路上で、虫がうようよとわいて悪臭を放つメス犬がいました。ナーローは鼻をつまんでそれを飛び越えたところ、犬は虹の光を放って舞い上がり、こう言いました。
『全ての生類は本来わが両親である。
大乗の道において
慈悲の心を開発することなくして
どうして、グルを見つけることができようか。
お前は間違った方向を探しているのか。
他人を見下す者が、どうして、
自分を受け入れてくれるグルにめぐりあえようか。』
こうして犬は消え、ナーローはまたも気を失って倒れました。
この、これからどんどん続くナーローの十二のエピソードっていうのは、最初の方は結構分かりやすいんです。というよりも、ここまでが分かりやすいといったらいい。次のところから、訳が分からなくなってくるんです。ここまではまだ分かりやすいでしょ。みなさんもちょっと予測がつくでしょ。
まず一つは、「とある狭い道路上で、虫がうようよとわいて悪臭を放つメス犬がいました」。
まずね、この現象自体は、ナーローの心の嫌悪の現われです。嫌悪ね。
あの、ちょっとこのね、この物語っていうのはもう一回言うけども、非常に高度というか――高度というのは、なんていうかな、みなさんがいっぱい教えを学ばないと分からないっていう意味での高度ではなくて、微妙な話っていう意味で高度なんです。微細な話っていうかな。だからここで必要になってくるのは、みなさんにとっては知識でもなく、知能でもなく、頭の柔らかさです。あるいは、心の柔らかさっていうかな。心と頭を柔らかくして、しっかりと学ぶようにしたらいいね。
ちょっとじゃあまた原則的な話をするとね、みなさんこの世で嫌いなものってあると思うんだね。あるいは、嫌いっていうか、気持ち悪いなって思うもの。あるいは、汚いなって思うものとか、「わ、嫌だ」って思うもの。まず第一段階として、みなさんの人生で、そういうものに出会うことがあるとしたら、それは自分の心の現われだと思ってください。
で、もう一つは、それをそのように感じること――つまり、それを汚い、「うわ!」って感じてしまうこと自体も、心の現われですね。
これはね、ちょっと広い話になってしまうので、みなさんそれぞれで考えたらいいんだけど――これは、前にもちょっと言ったけど、わたしのある一つの経験を言うとね、ちょっとこれは変な話なんだけど。ある時、もう十数年以上前ですけども、修行してたら、みんなにもここで言っているように、ある段階からわたしの修行がね、ある段階にきたときに、体中がもういわゆる甘露が落ちて、エクスタシーで包まれるっていう状態になったときがあったんだね。もちろんそれは今も続いてるんだけど、それが最初の頃っていうのは当然、ものすごいそれが刺激的で、何をしても快感に浸るような感じがあったんだね。
で、その頃っていうのは本当にあらゆる経験がエクスタシ―になってしまう。あらゆる経験っていうのは、例えばこう何かに触れただけで手から体中にバーってエクスタシーが走る。あるいは、何かをじっとみつめただけで目からバーってエクスタシーが走る。だから、音を聞いてもそうだしね。あらゆる感覚的経験が強烈な至福感に変わるような状態になってたんですね。
で、そんなあるとき、わたしがあるときある仕事をしてたんですけども、その仕事場でお風呂に入ったんだね。お風呂に入って、で、ちょっとのぼせちゃって、風呂場の洗い場の所でちょっと横になって休んでたんですね。横になって休んでいたら、最初気づかなかったんだけど、フッとこう目に入ってきたものがあって、それは仕事場のお風呂だんだけど、その仕事場の誰かが、自分のパンツをね、なぜかそこの風呂の中に干してるっていうか置いといたんだね(笑)。で、わたしがのぼせて「ああ……」ってなってるときも、さっき言った至福感にとらわれてたんです、すごく。「ああ、なんか体中が気持ちいい」って思ったんだけど、そのパンツが目に入った瞬間、嫌な気持ちになって(笑)、しかもなんか汚いパンツだったから、なんか「うわ、誰だろこれ。今自分は、本当に至福に浸っていたのに、こんな気持ち悪い、何でパンツ置いてんだ」みたいな(笑)、うわーって気持ちになったんだね。
で、ちょっと嫌な感じになって、最初わたしはそれを、ちょっとこう怒ったような感じがあって。「せっかく人が至福に浸っているのに、こんな気持ち悪い汚いものを何置いてくんだ!」って思ってたんだけど、ちょっとそこでハッとして、これはわたしが間違っていたと。なぜならば――そのとき思ったのは、それは閃いたというか浮かんできたわけですけども、この世のすべては――いいですか?――神の祝福であると。で、もっと言えば、この世のあらゆる世界っていうのは、神の祝福の歓喜でできている。で、そのわたしが汚いパンツと認識していたものも、物理学的にいえば、原子の集まりにすぎないんだね。原子の集まりを、概念上「パンツ」と認識し(笑)、しかも「誰かが履いて洗ってない汚いパンツ」とこう認識を、自分が与えてるに過ぎなくて、正体は、物理学的にいうと原子であると。で、その原子というのは、物理学では単純に原子としかいわないけども、ヨーガの深遠なる見解においては、その原子の一粒一粒が神の祝福であるっていうことになるんだね。
で、その瞬間、本当にリアリティをもって――そのときはね、なんていうかな、ちょっとリアルな経験をいうと、そのパンツを構成している原子の一粒一粒が、女神に見えたんです(笑)。ものすごい高い祝福を与える女神の原子の一つ一つが、そのパンツを構成しているように見えて(笑)、それによって、わたしのそのときの嫌な気持ちっていうのは全部吹き飛んで、パーってそのパンツを見ても至福になるようになった(笑)。これは、まあ一つのわたしの経験ですね。
これはちょっと一つの極端な例なわけですけども、そのように、本来われわれが心を完全に清浄にし、エネルギーを完全に清浄にし、智性を完全に清浄にしたならば、この世はあらゆるものが至福そのものに見えるはずなんですね。
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