光の経験
◎光の経験
だからあらゆることが気道と気の流れで証明、説明できる。だから単純にムドラーをやればいいって問題でもなくて、日常生活でたとえばいろんなとらわれがあったのが、心が成長してとらわれがなくなりましたと。あるいはいろんな汚れた心があったのが、心が成長して汚れがなくなりましたと。その一つ一つが気道の浄化とリンクしてる。
だからいろんな修行が必要なわけだね。徳を積むのも必要だし、戒律を守るのも必要だし、日常生活において自分の観念をぶち破ってくのも必要だし、執着を落としてくのも必要だし。いろいろやってるうちに総合的に体中の気道が通りだす。どんどんどんどん通っていく。
で、通ることによってもちろん、体中が非常に気持ちよくなりますが、それだけじゃなくて、光の経験を非常にするようになる。光ね。なぜ光の経験をするのかというと、もともと我々の心の本質は光に満ちています。ものすごい輝きに満ちている。しかし我々の気道が詰まり過ぎているがために、我々は闇の中にいるんだね。 これが、気が通るにしたがって、もともとある光がうっすらと見え出します。だんだんその汚れが除かれるにしたがって光が見えてくる。で、必ず光の体験というのをするようになる。
もちろんこれは何度も言うけど、徳がないとだめだけどね。徳があってしかも気が通り出しましたねと。この段階で光が見え出します。
もちろんそれは人によって、いろんな段階があると思います。徐々に見え出すとか、いきなりバーッとすごい光に飛び込むとか、いろいろあるだろうし、なんていうかな、自分が経験している光がどれくらいのものかってなかなか測れない。それは自分はすごいと思っても他人と比べたら実はそんなすごくない場合もあるから。でもそれはまあ、自分の中だけでもいいんだけどね。自分の中だけで、前は経験しなかったような光を瞑想中とかに経験するようになったら、あ、自分はだいぶ徳が積まれて実際に気が通りだしたんだなと考えたらいい。
これはね、おもしろいことに私、昔ある時気づいたんだけど、たとえば暗闇で瞑想する。ああ暗いなあ、と思いながら何も見えない。真っ暗。よし、じゃあ瞑想するか、って目をつぶって意識を集中すると、すごい明るいんですよ。おっ、と意識の集中をやめて目を開けると、暗いんです。目つぶった方が明るい。目をつぶってぐっと集中した方が明るいんです。あるいはその集中のまま目を開けると外界も明るい。
それから、私はもう慣れちゃってそんなに気づかないけども、なんていうかな、昼間も明るくなります。すごく変な言い方だけどね。昼間の見え方も、前よりも世界が明るく見える。つまりもう内的にもう光に満ちてくるんですね。
だからね、昼間は明るいのは当たり前だって言うかもしれないけども、前よりも何十パーセント分か、なぜか明るい。輝いてるんだね、世界が。比喩的な意味じゃないよ。よく精神世界とかで、世界が輝いて見えるとか曖昧に言うけども、本当に輝いている。本当に光がちょっと増してる。で、それは瞑想中とかも非常によくわかる。
◎光のヨーガ
で、これを利用したのが、チベット仏教とかで、光のヨーガって修行があるんだけど、光のヨーガとかではね、よく睡眠の光とかを利用するんだね。人間が睡眠に入るときに光が生じる。それを見極めなさいと。その方法は簡単だと。意識を持ったまま寝ろと。それが難しいんだけどね(笑)。意識を持ったまま集中して睡眠に入ると、誰でも光に没入すると。これを生来の光っていうんだね。
まあそれは別として、私は以前、まあ、さっきの話と関連するけども、修行がだんだん進んできて、ぐっと目をつぶって集中すると、バーッと光に包まれるようになった。そしてある時ね、よくその光のヨーガの修行をやってて、瞑想したり、あるいは寝ながらグーッと集中してバーッと光に溶け込んでったりしたんだけど、あるとき朝、すごい眠くて、いやあ、もう本当に眠いなあと思って、だらーっとして、やる気なくて、こう、体育座りで目をつぶったら、パーッて光が見えてきて。「え? なんでもいいの?」と(笑)。「目をつぶればそれだけで光が出てくるのか?」と(笑)。
ちょっと話がずれるけどね、ちょっと皆さんに希望を言うと、修行って、なんていうかな、たとえば一つ一つ、階段の踊り場じゃないけども、段階があって、段階を確定させるまでは非常に辛いけども、確定しちゃうと楽なんです、非常に。努力が必要なくなる。
たとえば今の光の話なんかそうだけど、光を出すまでは非常に大変なんだと。で、光が出てからそれが安定するまでが大変だと。安定してしまったらもう楽なんです。さっきみたいに、だらーっとしてても目をつぶったら光がバーッて出てくる。前は、だらーっとしてたらもちろん全然だめで、しっかりと蓮華座を組んで腰を入れて、もうひたすら長い修行をしてパーッと出てきてた光が、だんだん、だらーっとしてても目をつぶるだけで出てくるようになってしまう。いろんな瞑想経験もそうだけどね。だから修行っていうのは先に行けば行くほど、そういう、なんていうかな、確定されたものが多くなってくるから、楽しくなるし、楽になってくるんだね。
つまりその、1、2、3、4の段階があるとして、それを達成するのは大変なんだけども、達成しちゃったら次は5、6、7って行かなきゃいけないから、この1、2、3、4なんていうのはもうすっ飛ばすんです。すっ飛ばせる。よし、って確定した段階で、もう、ぱっぱっぱっぱっぱっと、そんなのはもう遊びだと。そんなのは簡単に行けますよという段階になってくる。
だから修行っていうのはそういうメリットっていうか面白さがあるんだね。