修行の指示と経験について
ヨーガでは、眼玉を上に向け、眉間に集中させる瞑想があるが、
私はこれをやると、眼や眉間が痛くなり、嫌だなあと思っていた時があった。
しかし本当にエネルギーが上がり、良い瞑想に入れるようになったとき、
自然に眼玉が眉間に向くことを経験した。
仏教では、瞑想の時、視線を鼻先や少し先の床に向けさせることがある。
私はこれをやると、意識やエネルギーが下がる気がして、嫌だなあと思っていた時があった。
しかしある種の良い瞑想に入れるようになったとき、
自然に視線が下に向くことを経験した。
同様に、体中の気道が通り、トゥモの炎が燃え上がるようになったとき、
自然に腰が入り、かかとがお腹に突き刺さり、胸が広がり、頭が上に引っ張られ、蓮華座が完成した。
また、いつもエネルギーが上がりっぱなしになったとき、
自然に三つのバンダが入り、ムドラーの意味が分かった。
こういったことを経験して類推すると、
これらの修行のセオリーは、実際に過去の聖者たちの身に自然に起こった現象を
追体験させて、早くその境地に引っ張りこむためのものなのかもしれない。
しかし適用の仕方を間違うと、
人によっては、オーソドックスな修行の指示が、マイナスになることもある。
たとえば私は、視線を鼻先や下に向ける瞑想や、眉間に向ける瞑想は、
人によってはあまり勧められないと感じている。
よって結局は、それらの多くの修行の指示を、
真似事ではなく、「自然に生じる」というプロセスによって経験した、
経験多き師の指導を受けることが、とても重要になる。
実際今の自分にはどのシステムの適用が必要なのか
そして自然にそれらの状態を生じさせるにはどうしたらよいのか
それらを師に指導してもらう必要が生じる。
そのうえで、聖典に説かれる修行のテクニックの真の意味を
自然に生じる経験として理解したならば、
それこそ本当の会得であり、
それは修行者にとって大きな財産となるだろう。