信者たちと共に(3)
1882年4月9日 日曜日
シュリー・ラーマクリシュナは、カルカッタのプランクリシュナ・ムケルジーの家の客間に、信者たちと共に座っておられた。午後一時と二時の間だった。ヴィシュワナート大佐(ラーマクリシュナの信者で、カルカッタ駐在ネパール政府代表)がこの近くに住んでいるので、師は、リリー・コテージにケシャブを訪ねるまえに彼の所によろうと考えておられた。大勢のプランクリシュナの隣人や友人たちが、シュリー・ラーマクリシュナにお目にかかるよう招かれていた。皆が、彼の言葉を聞こうと待ち構えていた。
師「神と彼の栄光。この宇宙は、彼の栄光である。人々は彼の栄光を見て、何もかもを忘れてしまう。彼らは神を求めない。この世界は彼の栄光であるのに。皆が『愛欲と金』を楽しもうとする。しかし、その中にはあまりに多くの不幸と心配がある。
この世界はヴィシャラクシ河の渦巻きのようなものだ。船がひとたびそこに入ったら、もう助かる望みはない。また、この世界はイバラの茂みのようなものだ。一つのトゲの群れをやっと切り抜けたと思ったら、もうすでに次の群れに巻き込まれている。いったん迷路に入ったら、抜け出すことは非常に難しい。世間に暮らしていると、人はいわばしなびてしまうのだ。」
ある信者「それでは、どうしたらよいのでしょうか。」
師「祈りと、そして高徳の人との交わりだ。
医者の助けがなければ、病気を治すことはできないだろう。しかし、たった一日ぐらい宗教的な人々と共に暮らしても十分ではない。絶えずそれを求めなければならない。病気が慢性になっているのだから。また、医者と一緒にしじゅう暮らさないと、脈を正しく診ることは覚えられない。しじゅう彼について歩いていると、カパの脈とピッタの脈が見分けられるようになるのだ。」
信者「高徳の人と交わると、どういう良いことがございますか。」
師「神への渇仰心が生まれる。神への愛が生まれる。
霊性の生活では、渇仰心がなければ何一つ得られるものではない。常にサードゥたちと一緒に暮らしていると、魂は神を求めて落ち着かなくなる。このあこがれは、家族に病人を持つ男の心境に似ている。彼の心は、どうしたらこの病人が治るだろうかと考えて、絶えず落ち着かない状態にあるだろう。
あるいはまた、人は神に対して、職を失い、一つの事務所から他の事務所へと仕事を探し歩いている男の熱望のようなものを感じなければならない。あるところで空席がないといって断られても、彼は次の日にまたそこに行き、『今日は空席がありますか』と尋ねるだろう。
もう一つの方法がある。熱心に神に祈ることだ。神はまさに我々の身内でいらっしゃる。我々は、彼に『おお神よ、あなたはどのようなお方なのですか。ご自身を私にお示しください。あなたは私にご自分を見せてくださらなければ行けません。そうでなければ、なぜあなたは私をお作りになったのですか』と言うべきなのだ。
あるシーク教徒が、あるとき私に言った。『神はお慈悲に満ちていらっしゃいます』と。私は言った。『なぜ彼を慈悲深いなどと言わなければならないのか。彼は我々の造り主なのだ。彼が我々に対して親切であったとて何の不思議があろう。両親は彼らの子供たちを育てる。それをおまえたちは親切の行為などと呼ぶか。彼らはそうするのが当然なのだよ』と。
それだから我々は、自分の要求を神に押しつけなければいけない。彼は我々の父母ではないのか。息子がもし世襲財産を要求して断食でもするなら、たとえ法の定める時期の三年前であっても、親は彼の取り分を渡すだろう。あるいは、子供が何パイスかを両親にねだって、繰り返し繰り返し、『お母さん、二パイスでよいからくださいな。この通り膝をついてお願いします』と言えば、母親もこの熱意を見て耐えられなくなり、お金を投げてやるのだ。
高徳の人たちとの交わりからは、もう一つの利益が得られる。それは、実在と非実在とを識別する力を育てる。神だけが実在、つまり不滅の実体であって、この世界は非実在、つまり移り変わるものである。人は自分の心が非実在のものの方にさまようのに気づくと同時に、識別力を使わなければいけない。象が隣人の庭のバナナの木を食べようと鼻を伸ばした瞬間に、それは象使いの鉄の突き棒の一撃をくらうのだ。」
隣人「なぜ人は罪深い傾向を持っているのですか。」
師「神の創造には、あらゆる種類のものがある。彼は、善い人々と同じように悪い人々も
お作りになった。我々に善い傾向をお与えになるのは彼である。そしてまた、我々に悪い傾向をお与えになるのも彼である。」
隣人「そうであれば、私たちは自分の罪ある行いに対して責任がないのではございませんか。」
師「罪は自ずから結果を生む。これは神の法則だ。チリを噛めば舌がひりひりしないかね。モトゥルは、若いときにかなり放埒な生活をした。それだから死ぬ前に様々の病気に苦しんだ。
人は若いときにはそれに気づかないかもしれない。私は、カーリー寺院の台所の竈で薪が燃えているときに中を覗いたことがある。最初は、しめった木はむしろ良く燃える。添えほど湿気を含んでいるようには見えない。しかし木が十分に燃えると、湿気が全部一方の端に逃げる。ついには、薪から水が噴出して火を消すのだ。
それだから、人は怒りや情欲や貪欲には気をつけなければいけない。たとえば、ハヌマーンの場合をごらん。腹立ち紛れに、彼はセイロンを焼いた。ついに、彼はシーターがアショカの木の林の中に住んでいるのを思いだした。それで、火が彼女を傷つけはしないかと恐れて震えだした。」
隣人「なぜ神は悪い人々をお作りになったのですか。」
師「それは彼の思し召し、彼のお遊びだ。彼のマーヤーの中には、ヴィディヤー(明智)と共にアヴィディヤー(無明)もある。闇もまた必要なのだ。それは光の輝きをいっそう良くあらわす。
怒りや愛欲や貪欲が罪悪であるということは明らかだ。それではなぜ、神がそれらをお作りになったのか。聖者たちをお作りになるためである。人は、感覚を征服することによって聖者になるのだ。自分の情欲を克服した男にとって、不可能なことがあろうか。彼は、神の恩寵によって神を悟ることさえできる。また、彼の創造のお遊びの全部が、愛欲によって永眠している様を見てごらん。
悪い人々もやはり必要だ。あるとき、ある領地の小作人たちが始末におえなくなった。地主は、ならず者であるゴラク・チョウドゥリーを送らざるを得なかった。彼は実に過酷な管理人だったので、小作人たちは彼の名を聞いただけで震え上がった。
あらゆるものが必要なのだ。あるときシーターが言った。『ラーマ、アヨディヤーにある家が全部大邸宅だったら立派でしょうねえ。古い荒れ果てた家がたくさんあります』と。するとラーマが、『しかし、もしすべての家が立派であったら、石工たちはどうするだろう』と言ったという。(笑い)神はあらゆる種類のものをお作りになった。
彼は善い木々をお作りになり、そしてまた毒のある草木もお作りになった。獣たちの中にも善いものも悪いものもあり、あらゆる種類の生き物がある。――虎、ライオン、蛇などなど。」
隣人「師よ、在家の生活を送りながら神を悟ることはできるものでしょうか。」
師「できるとも。しかし今も言ったように、高徳の人たちと交わり、絶えず祈らなければいけない。人は神を求めて泣かなければならない。このようにして心の不純物が洗い流されると、人は神を悟るのだ。
心は泥に覆われた針のようなものであり、神は磁石のようなものである。泥が洗い流されなければ、針は磁石と一つになることはできない。
愛欲、怒り、貪欲、およびその他の悪い傾向、そしてまた世俗の楽しみを求める性質、まさにこれらに相当する泥は、涙で洗い流されるのだ。泥が洗い流されると、磁石は針を惹きつける。すなわち人は神を悟る。心の清い者だけが神を見るのだ。熱病患者は体内に水分がありすぎる。それが除かれないとキニーネも効果を発揮しようがない。
世間に暮らしていては神を悟れない、などということがあるものか。しかし私が言ったように、人は高徳の人たちと共に暮らし、神の恩寵を求めて泣きながら彼に祈り、そしてときどき一人にならなければいけない。道ばたの植物は最初に垣根を作って守ってやらないと、家畜に踏み荒らされてしまうだろう。」
隣人「それでは、在家の信者も神の御姿を見ることはできるのでございますね。」
師「あらゆる人が必ず解脱する。
しかし人は、グルの指示に従わなければならない。もし道を踏み迷うと、元に戻るのに苦労するだろう。解脱を得るのに長い時を要する。ある人は、今生でそれを得ることはできないだろう。たぶん、何回も生まれ変わった後に、ようやく神を悟るだろう。
ジャナカ王のような賢者たちは、世間のつとめをおこなった。彼らはそれをちょうど踊り子が瓶や皿を頭上に乗せて踊るように、心に神を思いながらおこなったのである。西北インドの女たちが水瓶を頭上に乗せ、しゃべったり笑ったりしながら歩いて行くのを見たことはないか。」
隣人「今、グルの指示ということをおっしゃいましたが、私どもはどのようにしてグルを見いだしたらよいのでしょうか。」
師「誰も彼もがグルになれるというわけではない。大きな材木は水に浮かんで獣たちをも運ぶが、つまらない木の切れ端は、もし人がその上に座ると沈んで、彼をおぼれさせるだろう。だからあらゆる時代に、神が自らグルとして地上に生まれ、人類をお救いになるのだ。サチダーナンダのみがグルである。
何が完全なる叡智であるか。そしてこのエゴはどういうものであるか。
『神のみが行為者である。他に行為者はいない』――これが完全なる叡智だ。私は行為者ではない。私は神の御手の中の道具に過ぎない。それだから私は言うのだ、『おお神よ、あなたが操縦者で私は機械です。あなたが主人で私は家です。あなたが御者で私は馬車です。私は、あなたが私を動かされるとおりに動きます。あなたがおさせになるとおりにおこないます。あなたが話させになるとおりに話します。私ではない、私ではない、あなたです、あなたです』と。」
師はプランクリシュナの家からヴィシュワナート大佐の家に、そしてそこからリリー・コテージに行かれた。
-
前の記事
信者たちと共に(2) -
次の記事
君は聖者であれ