余談3
ヒンドゥー教においても仏教においても、魂の落下、解脱、救済といったことをわかりやすく説明するための「物語」がある。
簡単に言えば我々はもともと完全であったのだが、何らかの理由で無明に巻き込まれ、輪廻に落ちた。本来存在しない幻である輪廻で今、もがき苦しんでいる。
その中で一部の魂が奮闘し、修行し、自己を浄化し、輪廻を超え、魂のふるさとに帰る。
さらにその中で一部の魂は、自分だけの安穏では満足できず、菩薩として、神の道具として、他の人々もこの輪廻という幻から救い出すお手伝いをする。
こうして菩薩たちがすべての魂を輪廻から救い出すことで、この宇宙は終わる。
菩薩は、最後の一人が救われるまでは、自分は輪廻から卒業せず、輪廻にとどまり続ける。
これはとても美しい物語であり、ある意味で真実だろう。
しかし、問題がある。――最後はどうなるのだろうか。
最後、すべての魂が救われるが、実際にはすべての魂が完成して救われるわけではない。ある程度の境地で輪廻を脱却するだけなので、完全に完成していない魂は、未来において再び輪廻に落ちてしまう。
まあそれはいい。なぜならその魂たちも、いずれは「完全に完成」するのだから。
つまり、自分も含めてすべての魂を最終的に「完全に完成」させることが、神の道具である魂、菩薩の目的であるということになる。
つまり最終的には「すべての魂が完全に完成」するのだ。
その境地は、言葉に表せないのだが、すべてが一つに溶け込むとか、至高者のもとに帰るとか、一応、真実に近い言葉で表現される。
しかし、もしそのようなゴールがあるなら、そのゴールまでのこの限定的時間的な道は、なぜ必要だったのか。
魂の苦悩の時期があり、その後の安穏の時期がある。
魂の苦悩の時期は限定的であり、その後の安穏の時期は永遠である。
これはおかしくないだろうか?
その後が永遠なら、永遠でない時期はなぜ必要だったのか。
高度な教えでは、いや、もともとすべてに始まりも終わりもなく、もともと永遠なんだよ、と説く。
それも真実だろう。
ただ輪廻という錯覚に落ちているだけなんだよ、と。
しかしこの考え方も、振り出しに戻ってしまう。錯覚だろうと何だろうと、錯覚している時期と、錯覚から抜けたその後の時期があるということだから。
すべてが錯覚なら、今我々が苦しんでいる時期、そこから抜けようとする努力の時期、これはなぜ必要なのか?
我々が今この瞬間も全員が完成しているとしても、自意識として苦しんでいる多くの魂がいる。これはなぜ必要なのか?
――私はここで別に、問題提起をしているわけではない。
こういうことに心を向けると、うっすらと、この錯覚の世界に楔が打ち込まれ、幻影のヴェールがはがれてくるのだ。
バクティ・ヨーガにおいてはうまいことを言った。「リーラー(神の遊戯、お遊び)」なのだと。
実はこの辺の話は、本来は考えてはいけない話なのだ。それは、言葉で表現できる領域と、悟らなければわからない領域の、ギリギリの際だから。
そういう意味では、教えはすべて嘘である。嘘というか、本来言葉で表現できないことを、何とか表現しようとしている。その表現の仕方は、子供向けから賢者向けまで、いろいろある。
実際は教えは、真実に近づくほど、言葉としては矛盾してくる。その理解には知能よりも純粋智性が要求されるし、そのためには自己の心の浄化が要求される。
考えてはいけないことではあるが、この辺の「際の話」にたまに心を向けると、自分がいかにマーヤーにとらわれていたか気づき、ハッとする。パッと手放すことができる。やばいやばい、わっはっは、と笑。
「自分」が傷つけられた? いいじゃないか笑
執着しているものが得られない? いいじゃないか笑
○○が心配だ? いいじゃないか笑
何を、引きずり込まれてるんだ笑
この世はもともと存在しない、どころか、その錯覚と解脱の物語さえも方便であり、神が我々を、根本的なマーヤーのヴェールで包んでいらっしゃる。
マーヤー!
マーヤー!
マーヤー!
本当に修行が進んだとき、言葉による教えを超えた、言葉では表せない、「本当の本当」がわかるだろう。
あえていうなら、そこには完全なる平安がある。
しかし神の使命により、必要があればまたマーヤーのヴェールをかけられるだろう。
それでいいのだ。
そういうものなのだ。
さて、余談はこれくらいにして、マンゴーを食べよう笑。
哲学的思考はほどほどにしておけ。我々がこの世に縛られ過ぎないために少し使うだけにしておけ。
我々は神への愛を成就するために、この世界にやってきたのだから。
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