仏陀を見よ
過去・現在・未来のあらゆる世界には、
常にあまねく如来がいらっしゃる。
しかし衆生は妄想によって、
本来は存在しない外的世界を知覚する。
まるで闇の中にいるように、
あらゆるところにいらっしゃる如来を見ることができない。
そうして迷いの網を広げ
生死輪廻を繰り返す。
何にも執着することなく、
誤った見解を捨てたならば、
本来空であるもろもろの仏陀を
見ることができるのである。
妄想によってものの姿を受け取るのは迷妄である。
このゆえにブッダを拝見できないのであり、
真実を得られないのである。
聖者は過去・現在・未来を越え、
ブッダの相をことごとく具え、
存在しながらも存在に執着することなく、
その世界はことごとく清浄である。
原因と条件によってものは生じ、
原因と条件によってものは滅する。
このように見るならば、
ついには愚かな迷妄から離れることになる。
如来の叡智は大変に深く、
誰にもはかり知ることはできない。
よってその教えを聞いても、それを修行し悟ることがなければ
世間の人々は皆、戸惑ってしまうだけだろう。
無智なる人々は利己的な思惟をし、迷い、
知覚の対象に執着するが、
この故に、清浄なるブッダを見ることができないのである。
無智なる心が迷い誤って、物と心の仮の相に執着し、
真実の本性を悟ることができない。
それゆえ、ブッダを拝見することができないのである。
すべての分別は真実ではないと
このように悟ったならば
ヴァイローチャナ如来にまみえることができるのである。
物と心に執着するがゆえに、
その仮の意識は、輪廻を超えて連続していく。
しかし物と心の実相を順次に悟っていくならば、
ブッダを拝見できるようになるのである。
不浄な心は、ブッダの真理を見ることができない。
心が捻じ曲がっていたならば、ブッダにまみえることができないのである。
それゆえに、清らかな智慧の眼を磨き、
ものの実相を見るべきである。
ものの姿を明瞭に見るということは、
鏡に映った象を見るようなものである。
正しい見解・正しい思い・正しい言葉・正しい行為・
正しい人生・正しい精進・正しい念・正しいサマーディ
悟りにいたるこの八正道を知らず、実践することがなければ
どのようにして自分の心の本性を知るというのであろうか。
倒錯した思いによって、一切の悪が増長されるのである。
心のすべてを知ろうと思うならば、
まず清浄なる法眼を求めねばならない。
「自分が見る」ということがなければ
その人はすべての真実の法を見るであろう。
法眼によって見るとき、
「自分が見る」ということはないのである。
「自分が見る」というのは煩悩であり、
このような人に仏陀の見解はない。
もろもろのブッダには、「自分が見る」ということはない。
それゆえ、清浄に見るのである。
言葉によって表わされるものはすべて仮のものであり、
真実ではない。
世の中は縁起によってできていると知ったならば
生死のわずらいから離れることができよう。
この世とニルヴァーナとは平等であると見て
両方とも真実であると知る人を
「真実の見解の人」という。
もしこのように見ることができるならば
煩悩は尽きて、自在となるのである。
この「有でも無でもない」と見ることを
「不二の見解」という。
真実には相対的な二つの相はなく、
真理の本性はおのずから清浄であり、空であり、
誰にもよく説明することはできない。
智慧ある者は、このように見るのである。
あらゆる行ないは、実はニルヴァーナのままに行なわれており、
その姿は空なのである。
衆生はもともとニルヴァーナにいるがゆえに、
真理の本性を知ったならば、仏陀にまみえることができるのである。
聖なる師が説く真理の説法は、
無尽なる智慧が説いているのであり、
その師が説いているのではない。
偉大なるブッダ方は、見ることなくして見ることを説き、
自我なくして衆生を導く。
真実のブッダと、ブッダの説くところをよく知るならば
ヴァイローチャナ如来のように、
あまねく一切の世界を照らすようになるであろう。
inspiration:Buddha-avatamsaka-nama-maha-vaipulya-sutra
arrange:Keisho Matsukawa