人に生まれることの稀有さ
第一章 菩提心の賛嘆
--オーム、ブッダに帰依いたします--
【本文】
もろもろのスガタと、仏子(菩薩)と、法身と、すべての敬うべき師主たちの前に、恭しくひれ伏して、仏子の律儀への趣入(すなわち菩薩行の実践)を、聖典にしたがって、私は簡単に説こう。
ここに(経典にないような)斬新なことは何も述べられない。また私には著作の才能もない。ゆえに、私は他人のためを考慮せず、もっぱら自己の心を(菩薩行に実践によって)薫じようと、これを作った。
これによって、私の清浄な心の流れは、善を実現しようと強く増進する。ところで、私と同じ性質の他の人が、これを見るならば、これはまたもって効用を生ずるであろう。
【解説】
これは序文の部分です。
ここでシャーンティデーヴァは、謙遜をしていますね。しかしこの書全体を見るならば、もちろんシャーンティデーヴァが、多くの人々のために、この書を書いたのは間違いのないことです。しかしこのような書き方でこの書が始まるところに、シャーンティデーヴァの謙虚さとともに、ユーモアを感じますね。私は才能がないので、自分のためにこの書を書いたんだけど、まあ、自分と同じ性質の人がいたら、少しは役立つかもしれないですね、みたいなことを言ってるわけですね(笑)。
ここで少し言葉の解説をしますと、スガタというのはお釈迦様の呼び名の一つで、普通は【善逝】と訳されますが、善逝といってもよくわからないので、あえてスガタとしました。ここでは、【もろもろの】と言っているので、お釈迦様だけではなく、この宇宙に偏在する多くのブッダ方のことを言っているのでしょう。
【本文】
この恵まれた人生は、きわめて得がたい。これを得て初めて人間の目的(すなわち解脱)は達成せられる。もし、ここで(真の幸福の因である)善福を認識しなかったら、どうして再び(このような幸福が)めぐり来よう。
【解説】
これは仏教の基本である、「人に生まれることの稀有さ」の強調です。
基本的なことですが、もう一度簡単に説明しましょう。
我々は、解脱しない限り、地獄・動物・餓鬼・人間・天の五つの世界を輪廻し続けます。六道輪廻という場合は、最後の天を、阿修羅と天に分け、六道とします。
輪廻するというのはつまり、死んでは生まれ変わり、死んでは生まれ変わり、これを永遠に繰り返すということです。解脱しない限り、終われないということです。
お釈迦様は輪廻転生を説かなかったとか、あるともないとも言わなかったとか言う人がたまにいますが、そんなことはありません。お釈迦様の実際の言葉に最も近い内容を探るには、現存する原始仏典を探るしかないわけですが、少なくとも原始仏典には、輪廻転生の話はたくさん出てきます。というより、輪廻転生があることが大前提となって、教義が展開されています。また、解脱者が身につける神通力の一つに「宿明通」という、あまたの過去世を思い出す能力があるということも、お釈迦様はお説きになっています。
「お釈迦様は輪廻を方便として説いたのだ」などという推測をするのは自由ですが、推測ではなくてお釈迦様自身の言葉に最も近いと思われる経典をそのまま素直に受け取るならば、輪廻転生は実在すると考えるのが自然ではないでしょうか。
さて、この六道輪廻のうち、下の三つの世界(地獄・動物・餓鬼)は「三悪趣」と呼ばれ、大変な苦痛に満ちた世界です。人間以上の世界は善趣といって、一応幸福な世界なのですが、自分の人生を振り返れば、人間界に生まれても、幸福なことばかりではないことはお分かりでしょう。
天に生まれたらどうでしょうか? 私は天こそ、最悪の輪廻の苦痛の世界だと思いますね。なぜなら、天の神も死ぬからです。天はすばらしい歓喜と幸福に満ちた世界です。しかし死ぬのです。そして死んだらほとんど、天より低い世界に生まれ変わります。天から地獄に生まれ変わることも、稀ではありません。
我々の幸福や苦しみというのは、相対的なものです。つまり以前の経験と今の経験の比較や、自分と他人の比較によって、苦楽を感じるわけですね。ということは、たとえば動物から地獄に落ちるとか、人間から地獄に落ちるのに比べて、天から地獄に落ちるというのは、これ以上にない苦痛ということになるでしょう。天での快楽が大きければ大きいほど、その後の地獄の苦痛も大きく感じられます。だから「天こそ最悪の苦痛の世界」と書いたのです。
そして確率からいうと、我々はほとんど、地獄・動物・餓鬼の三悪趣を輪廻し続け、本当にたまに、人間や天に生まれるだけだ、といわれます。これは脅しではなくて、論理的に正しいことです。なぜなら、すべての現象の原因は自己の善悪の行為(カルマ)だからです。良い行ないによって幸福になる。悪い行ないによって不幸になる。そしてその良いカルマを多く持っていれば良い世界に生まれるし、悪いカルマを多く持っていれば苦しい世界に生まれるということです。
そして地獄・動物・餓鬼の世界では、良いカルマを積むことはほとんどできません。
天の神はどうでしょうか? 実際は天というのは、この欲界の輪廻を超えた、もっと高い天もあるのですが、ここでは欲界の天のことを指しています。この欲天の神は、無智をその性質としているので、あまりの快楽や幸福に溺れ、修行もせず、徳も積まず、ただ功徳を浪費するだけなのです。
そしてこの輪廻の中で唯一、まじめに修行し、徳を積むチャンスがあるのが、この人間界だというのです。
人間界は、地獄ほど苦しくないので、真理を探究する余裕があります。動物ほど無智ではないので、ものを考えることができます。餓鬼ほど貪りが強くないので、他者への善を行なうことができます。天ほど楽しくないので、人生に溺れることがありません。
だから人間に生まれたときこそ、チャンスなのです。徳を積み、修行し、解脱し、この輪廻から抜け出る唯一のチャンスなのです。
そして、ここでシャーンティデーヴァが言っていることを、もう少し噛み砕いてまとめて書きますと、こういうことです。
「人間界こそが、唯一、徳を積むことができ、修行ができ、解脱することができる世界である。
しかしこの人間界に生まれるチャンスは、極めて少ない。
いま私は、その稀有なチャンスを得ている。それなのに今、徳を積んだり修行をしようという強い気持ちを起こさなかったら、いったいいつ解脱できるというのだ?
ものすごい低い確率でやっとめぐってきた今のこのチャンスを逃したら、再び人間界に生まれ、解脱のチャンスにめぐり合うのは、至難の業だよ。次はいつになるかわからないよ。また、苦しみの輪廻を永い間さまよわなければならないよ。」
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