五蘊
仏教でいうところの五蘊(色受想行識)について。
身体(色)を使って、外界との接触をし、受(感覚)が生じる。
しかしこの感覚というのが曲者で、本来、絶対的な感覚というものはない。
たとえばある女性が、好きでたまらない男性に肌をなでられたとき、その身体には強い快感が生じるだろう。
しかし嫌いでたまらない男性になでられたら、鳥肌が立ち、気持ち悪く感じるだろう。
しかし「肌をなでられた」という現象は同じはずなのだ。
想とは想念だ。身体と感覚によるこの世の経験をしたとき、想念が生じる。
しかしこれもまた、同じ経験をしたとしても、どういう想念が生じるかは、人によって違う。
たとえば誰かに殴られたとき。ある人はそこで怒りが生じる。ある人は惨めさが生じる。あるいはカルマの法則を学んでいる人は、カルマを浄化されたという喜びが生じる。
つまり同じ「経験」に対する、感覚と想念における価値評価が人によって違うのだ。
そしてその価値評価を決めているのが識、すなわち識別作用と呼ばれる働きである。
この識別作用は、固定的観念的識別作用といっていい。
ではこの識別作用の方向性を決定しているのは? それが行である。
行とはいろいろな意味があるのだが、まずそれは経験の残存印象といえる。
つまり過去の様々な経験の残存印象(行)により、ものの見方の方向性(識)が固定されてしまい、それによって、経験に対して偏った感覚や想念を持つようになるのだ。
そしてその偏った感覚や想念によってなされた経験は、また偏った経験の印象(行)として、心の奥深くにインプットされる。
その偏った印象のインプットにより、識別作用の偏りはさらに強まり、次に経験をしたときにまた偏った感覚と想念を持つこととなる。
この繰り返し。
これでは生きれば生きるほど、ものの見方は偏り、正しいものの見方はできない。そして偏った印象が心の奥に大量にインプットされていくので、「こうでなければならない」「私はこうしたいんだ」「これが私だ」といったような偏った欲求や観念はガチガチに固まっていき、その人は実体のない苦しみを味わい続けることになってしまう。
よって五蘊は、無常であり、苦しみであり、実体が無く、「私」の本質ではないのである。
ではどうすればいいのか?
自然に放っておいたら、
→身体による現実世界の経験 →
↑ ↓
識別作用の更なる偏り 偏った識別による偏った感覚と想念
↑ ↓
←偏った残存印象のインプット←
この悪循環、悪しき偏りのループは終わることがない。
ここで重要になってくるのが、真理の法(ダルマ)なのである。すなわちお釈迦様を初めとする聖者方が残した正しい教え、考え方だ。
この日記を読んでいるような人は、少なからずそのような教えに触れたことがあるだろう。しかしそれはまだまだ弱い経験なので、弱い残存印象としかなっておらず、識別作用にもあまり影響を与えていないかもしれない。
よってここですべきことは、まずしっかりと教えを学ぶこと(準備・正見)。
次に、教えに基づいて正しく考えること(正思惟・想念の浄化)。
次に、実際に様々な場面で、教えに基づいて行動し、教えに基づいて想念を持つ。
たとえば、人に優しくする。そうしたら逆に悪口を言われた。そのときに、放っておいたら、観念的識別のままにしておいたら、【このやろう!】【せっかく優しくしたのに、何だ!】という怒りがわいてしまい、相手への嫌悪感という想念が生じてしまうかもしれない。
それを意識的に止め、逆に真理の法に基づいた反応をするように努力するのだ。たとえば、【ああ、私の悪業を浄化してくれてありがとう】とか、【この人も早くこの怒りや悪口のカルマから解放されてほしいな】などと思うようにするのだ。
このような努力は、最初は無理やりでもいい。心がこもっていなくてもいい。そのうちだんだんこもってくるから。
このような努力を続けることで、今までとは違う、真理の法にかなった経験の印象のインプットが生じる。、
そしてそれが量的に増大すれば、識別作用にも影響を与える。そうなったらしめたもので、その人は自然に、すべての経験を、真理の法に基づいた価値基準で受け入れ、感じ、考え、行動するようになるだろう。
五蘊は幻影である。しかし我々は解脱するまで、この幻影である五蘊に支配され、振り回されている。五蘊=私であると思い込むほどに、強く支配されている。だからまず最初はこのような形で、五蘊の浄化をしていくべきなのである。
そしてこの五蘊の浄化がなされて初めて我々は、サマーディにいたることができ、五蘊を超えた世界への足がかりを作ることができるのである。
※上記の内容は、何かの本に書いてあることではありません。私が個人的に瞑想で感じたことです。五蘊の説明は学者や修行者によって微妙にいろいろ違いますので、ご了承ください。それぞれがそれぞれの角度から五蘊を説いているのだと思います。しかし上記のような方向性でわかりやすく書いたものが見当たらなかったので、少し書いてみました。
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