五蘊と五道
今朝、夢の中でインスピレーションを受け、まどろみの中で思索して、あることに気づいたので、忘れないうちに書き記しておきたいと思います。
これから書くことは仏典その他に典拠があるわけではないので、参考程度に聞いてください。
それは、仏教で言う五蘊が、地獄・動物・餓鬼・人間・天の五道に対応しているのではないかということです。
五蘊とは、われわれを構成している五つの要素です。
五道とは、一般的には地獄・動物・餓鬼・人間・阿修羅・天の六道という表現の方が馴染み深いかもしれませんが、もともと原始仏教では、阿修羅とは闘争の天界なので、天のカテゴリーに入れられ、五道とされます。さらに言うなら、ここで言う天とは、欲界の欲天だけではなく、色天や無色天をも含んだ天ですね。つまりこの五道を越えるということは、三界から解脱するということなのです。
五蘊とは色・受・想・行・識の五つですが、まず色とは、物質、肉体のことです。
この肉体にわれわれが最もとらわれた場合、われわれは地獄に落ちるでしょう。
仏教では、有身見といいますが、この肉体こそ私である、という思いが強すぎると、地獄への道となるのです。
つまりこの粗雑物質である肉体、地元素という、あらゆる要素の中で最も粗雑化されたものが中心に成り立っている世界、それが地獄なのです。
一つたとえ話をしましょう。われわれがもともとは、自己と他者の区別もない、すべてが一体の空の状態だったと考えてください。
この空間がエネルギーレベルが落ち、冷やされることによって、液体化します。液体は雨となって地に落ちます。そして水溜りになったり川になったり海になったり、あいまいな区別が生じます。そしてきれいな水や汚い水などの差別が生じます。そして水はある程度流れることができ、自由度がありますが、空ほど、すべてに行き渡る自由度をもっているわけではありません。
さらにそれがエネルギーレベルが落ち、冷やされると、固体化し、氷になります。この氷には自由はありません。自分の世界に凝り固まっています。そして一度氷が砕かれ、いくつかに分けられると、その個々はもう一つになることはありません。ここで完全な自己と他者の区別が成立します。この氷が再び他者と一つになるには、エネルギーレベルを上げて水になるか空になるしかありません。
つまり地のレベル、固体のレベル、肉体のレベルというのは、われわれがたどり着いた、最も低い世界なんですね。だから地獄なんです。われわれは他者と、心を通じ合わせることはできます。共感をしたりすることはあります。しかし肉体を合一させることはできません。セックスは本来は、昔のように他者と一つでありたいという思いの現われなのかもしれませんが、セックスでも肉体同士が本当に一つになることはありません。われわれはこの肉体という荷物によって、明確に他者と分けられ、エゴの中に封じ込められているわけです。言い換えれば、エゴが存在を主張する最も大きなよりどころとなるのが、この肉体なのです。
また、地獄の住人は、仏典の記述によると、肉体を切り裂かれ、焼かれ、粉々にされますが、すぐに肉体が復活し、また同じ苦しみを永い間味わわなければならないとされています。このように肉体によって苦しむのも、すぐに肉体が復活するのも、肉体へのとらわれが強いからですね。
ところで、ということは、ハタヨーガや、現代的なアーサナ中心のヨーガの実践者は、気をつけなければなりませんね。ヨーガが、あまりにも肉体の健康とか、均整のとれた体を作るということにばかりとらわれると、地獄に落ちる可能性があると思います。ヨーガによって肉体を鍛えるのは、あくまでもその後に続くより高い目的のためであるという認識が必要です。
ちなみに、禅や、マハームドラー、ゾクチェンなどの修行も、一歩間違えると動物界に落ちるとされています。なぜなら、それらの修行では、生き生きとした、クリアな、光に満ちた、心の寂静の状態--これをまず目指すわけですが、智慧のない修行者は、単に動物的な無智により心が暗く止まっている状態を、寂静の境地と勘違いし、修習してしまうからです。
もちろんタントラなども、本質を間違えると地獄や動物に落ちるでしょう。だからどんな修行をするにも、正しい理解と、正しい指導者に導いてもらうことが不可欠ですね。
さて次に、五蘊の受というのは、感覚のことです。感覚に最もとらわれた世界。これは動物界ですね。つまり動物は、何か思想があるわけではなく、本能によってただ感覚の喜びを追い求めているわけです。
この本能というのも曲者です。本能というのは、われわれの本性というわけではありません。本能というのは、過去世の経験から生じる欲求の方向性と言っていいでしょう。つまり過去世から何度も何度も繰り返し感覚の喜びを追い求め、今生もそのために生きているわけです。
もちろん、人間やその他の世界も、感覚の喜びを追い求めていますが、感覚がすべてではないでしょう。われわれは理性によって感覚的欲求を抑えることができます。あるいは、感覚的な喜びよりも、精神的な名誉とか、人に愛されることとか、そちらの方を求める気持ちの方が、本来は人間は強いですね。そして感覚をあまり追い求めすぎると、人間はむなしさを感じます(あくまでも本来の人間はということですが(笑))。
しかし動物は、食いたくなったら他のものを奪っても食う。そこに思想はない。名誉も恥もない。発情したら誰彼かまわずセックスをする。そこに思想はない。苦しいことからはとにかく逃げる。そこに思想はない。これが感覚優位の動物界ですね。
五蘊の三番目の想というのは、われわれがああだこうだと考えるイメージ、表層の意識の世界ですね。これが中心となっている世界が、餓鬼の世界であると思います。
前にも書きましたが、餓鬼というのは正確にはプレータといい、飢えた霊の世界です。
あまり長くならないように簡単に書きますが、ここは実体のない、悶々とした思いの世界と言っていいでしょうね。
つまり汚れたイメージを修習し、そのイメージにとらわれ、その悶々としたイメージの欲求を追い求め、さまよっている世界が餓鬼なわけです。
インターネットも、はまりすぎると、餓鬼に引きずり込まれると思います。つまりインターネットのやり取りというのは、目の前に相手がいるわけではなく、相手にも自分は見えず、実体のないイメージの世界の中でやり取りをしているようなものですから。
もちろんこのイメージの世界が、浄化されれば、われわれは色天に行くでしょう。しかし普通の現世的欲求や汚れを持ったままでイメージの世界にはまったら、餓鬼に落ちます。
ちょっと話がずれますが、修行の一つの大きなポイントは、このイメージの世界をいかに浄化するかです。言い方を換えれば、「想」の中を、真理一色にできるかどうか、これが大きなポイントです。ヨーガや密教の生成の瞑想では、まずそこに重点をおきます。
次に行(サンスカーラ)。この行という言葉にはいろいろな意味がありますが、ここでは、過去の経験の残存印象と定義します。それは深い意味での記憶であり、平たく言えば「思い出」です。
そして「思い出」にとらわれるのが人間であると、ここではさらっと説明しておきましょう(笑)。
まあ、もう少し言えば、人間は過去にとらわれ、恩を忘れなかったり、恨みを忘れなかったりしますね。
五蘊の最後は、識。これは識別作用ですね。言い換えれば、過去の行をもとに成立した、これはこうである、あれはああである、これは好きだ、これは嫌いだといったような、固定的な識別、観念ですね。
この観念はもちろんすべての世界を覆っているわけですが、天が識優位の世界というのはどういうことでしょうか?
この場合の識とは、良い意味での識ですね。つまり、何が正しく、何が間違っているか。何が善であり、何が悪であるか。
このような良い識別を、われわれは持たなければなりません。
これらは必要な観念ではありますが、悟りというわけではありません。しかしこの観念的な善悪や、識別にとらわれているのが、天界だということですね。
特に欲天は、『徳を積んで、悪を滅することで、この世で幸福になることが最高なのだ』という観念にとらわれています。もちろん、徳を積んで悪を滅して幸福になることは良いことですが、解脱の道とは、そういった現世の喜びも越えなければいけないわけです。
しかし、たとえば欲天の王であるマーラ(魔王)などは、自己の観念にとらわれ、おせっかいに、修行者を欲望で惑わしたりします(笑)。欲望の世界で徳を積んで生きるのが幸せだと思っているから、そこから修行者が解脱していくのを許せないわけです(笑)。
欲天を越えた色天も、それぞれの世界の持つ観念にとらわれています。無色界にいたっては、そこでは想などの粗雑なイメージは止まり、行や識だけの世界といってもいいでしょう。しかしその観念にとらわれているがゆえに、そこから抜け出すことができず、再び粗雑な世界に落ちてくることもあります。
繰り返しますが、良い意味での識別を磨いていくことはとても必要です。しかし解脱のためには、この識さえも超えなければいけないのです。
さて最後に、この五蘊に基づいた、最高の菩薩の道を簡単に示しましょう。
肉体にとらわれず、衆生のために、報身と変化身をつくり、衆生のために働きましょう。
この世の粗雑な感覚から解放され、本質的なサマーディ至福の境地にひたりましょう。
心を浄化し、想を真理一色で満たしましょう。なぜなら想の世界がこの現実世界に現象化するからです。
行の修行とは、『解説・入菩提行論』その他で何度も書いていますが、念正智の修行です。日々、いかに真理に基づいたものの見方をインプットし、アウトプットするか。
これによって、識の方向性が確定付けられます。
重要な識のポイントは、四無量心です。
私は衆生を幸福にしたい。
私は衆生を苦悩から救いたい。
衆生が悟りを進めるのはすばらしいことだ。
このような識別を固めるべきです。
そして自己の苦しみや喜びに関係する識別は、すべて捨てるのです。
またたとえばラーマクリシュナはよく、こう言っていますね。
『神だけが実在であり、他のすべては非実在である。このようにすべてを識別していきなさい。』
まあ、これらはいろいろなやり方がありますが、正しい教えに基づいて、正しい識別を磨くのです。最初から、識別を放棄してはいけません。われわれの中に過去世からの誤った行や識や想がある以上、まずは正しい行、識別、想を作り上げていく修行に励む必要があるんですね。
さて、ちょっとだけ書くつもりだったのが思わず長くなってしまったので(笑)、この辺で終わりましょう。
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