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二元対立を超えて

◎二元対立を超えて

【本文】
『ヴェーダは自然界の三性質(トリグナ)を説くが、おお、アルジュナよ!
 この三性質(トリグナ)や二元対立を超え、利得や安全に心煩わすことなく、常に真性にとどまる自我を確立せよ。』

 はい。バガヴァッド・ギーターっていうのは、『ミラレパの十万歌』とも似ていて、一つ一つの詞章とか言葉を瞑想対象としてもいいね。例えば今の一節もそうだけど、これについて瞑想するわけです。さあ、これは一体何を言わんとしているのかと。それもいい修行になると思います。
 簡単に解説すると、自然界のトリグナ、つまりこの宇宙っていうのは、ラジャス・タマス・サットヴァ、これがトリグナですね。トリっていうのは――インド・ヨーロッパ語族っていって、インドの言葉と英語っていうのは似てるんだけど、「3」、三つのことをトリとかトライとかいう。トリプルとかと似てるんだけど。三つのグナ。
 グナっていうのは元素というか、すべての大元の要素みたいなもの。この宇宙っていうのは、ラジャス・タマス・サットヴァ――ラジャスっていうのは熱の動的エネルギー。タマスっていうのは闇のエネルギー。サットヴァっていうのは光のエネルギー。この三つがぐじゃぐじゃと混ざり合って、あらゆるこの世の現象ができているんですよと。
 はい。この三つの性質からくるものや、それから二元対立――これは、この世はすべて相対的なものだから、もうあらゆることが二元対立でできているんです。好きと嫌い、綺麗と醜い。もう言葉が発生された段階で、それは二元なんです。必ず裏の言葉がある。
 われわれの思想って、全部二元なんです。数字が一番わかりやすい。よく「ゼロ」っていうけど。ゼロがあるってことは、ゼロじゃない――つまり一とか二とか、ゼロじゃない数字がある。あるいは「多」――多っていうのは、多数があるってことは、単数がある。 すべてはその、一元的なものっていうのは表せないんだね。「一元」って言葉ですら、表そうとすると、「一元」があるってことは「非一元」があるんです(笑)。あるいは「二元」がある。言葉ではどこまでいっても駄目なんだね。
 われわれの思想っていうのは――思想っていうか、思索っていうのは、言葉に慣れすぎちゃってるから、この二元の言葉を使わないと考えられなくなっちゃってる。だからわれわれの考えることって、ほとんど二元なんです。
 こうだったらいいと。こうだったら駄目だと。これは成功だけど、これは失敗だと。そういうあらゆる二元対立。あるいはその三グナっていう発想っていうか。三グナからくる分離状態っていうか。それをすべて超えて、利得や安全に心煩わすことなく、常に真性にとどまる自我を確立せよと。これは自我というか、真我と言ったほうがいいでしょう。
 これはだから、非常に、ここだけ抜き出すと、仏教のゾクチェンとかマハームドラーに近い発想ですね。つまりその――仏教的に言い直しますよ。仏教的に言い直しますと、
「得ること、失うこと。苦しみと喜び。称賛と非難。そして心地よい言葉と嫌な言葉。これらの二元的な八つの現世的感情にとらわれずに、常に心の本性を持続せよ。」と。
 これは言葉は違うけど、全く同じことを言っている。われわれの心の本性というもの、悟りの境地を常に持続しろと。これはすぐに失われるんです。
 たとえば瞑想で心の本性を確立したとしますよ。――たとえばK君が瞑想して、K君が瞬間的に心の本性に到達したとしますよ。そこで私とか他の人が来て、「K君、いい瞑想してるね」とぼそっと言ったとしますよ。ここからK君の二元が始まります。「お、褒められた」と(笑)。
 「お、褒められた」の背景には、「いや、これは下手なところは見せられないな」というのが始まって(笑)、どんどん二元の世界に巻き込まれていくんだね。だからすごく失われやすいんです。
 どんな環境にあろうとも――つまり苦しみの中にあっても、あるいは喜びの中にあっても、もうそんなことには全く心を煩わせないような状態。ただ心の神聖な本質の状態に常に持続してなければいけない。これはだから、仏教でいうと、ゾクチェン、マハームドラー。
 だからもう、結局真理はひとつなんだね。私いつも思うんだけど、仏教の人がよくヨーガを批判したりする。「いや、あのヒンドゥー教はこうだ」とか。「読んだのか?」と(笑)。
 あるいはヨーガも逆のことを言うよ。仏教を批判する。「君たちは仏教を本当に研究したのか」と。
 でもちゃんと分かってる人は分かってる。ラーマクリシュナとか、あともちろん仏教界でもそうだし、ダライ・ラマとかもそうだけど、分かってる人は分かってる。いや、みんな同じだよと。その本質っていうのは全く変わらない。その体系が違うだけで。

◎宇宙の真理

【本文】
『いずこも洪水で水が溢れている時、小さな貯水池など何の役にも立たぬように、宇宙の真理を悟った賢者(ブラーフマン)にとっては、ヴェーダの知識などそれほど大した価値はない。』

 はい。ここは、ずっと続いている内容ですね。さっきも言ったように、イエスが旧約聖書とか律法学者っていうその当時の権威、宗教的権威を相手にバーンと戦いを挑んだように、このバガヴァッド・ギーターもつまり、単純に過去から伝わるヴェーダの知識を振りかざして、しかし若干外れたことをやってる人たちに対して、バーンってこう、斬っているわけだね。
 「さあ、ヴェーダにこう書いてありますよ。これが真理ですよ」――このようなことよりも、そうじゃなくて実際に悟れと。実際に宇宙の真理に到達した者にとっては、そんな彼らが得意げにいっているヴェーダの言葉すらも、まったくその水溜りみたいなもんだよ、というところがこの表現ですね。

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