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リラックス

 瞑想の極意は、というか入り口は、完全なリラックスである。

 あるいはたとえばゾクチェンなどでは、何も努力しなくていい、ただリラックスせよ、などともいう。

 しかしそのリラックスの真の意味に到達するのが難しい。

 たとえ話をしよう。
 心や体が興奮したりイライラして眠れないとき、外に出て全力でしばらく走ったりすると、非常に疲弊し、その心地よい疲弊の中で、リラックスしてよく眠れるということがある。

 これはあくまでもたとえではあるが、大まかにいうとこれと似ている。

 しかし瞑想の場合は、そういう小手先のテクニックではダメだ。
 ただ実際、体を疲れさすと一時的に良い瞑想に入れるときはあるが、それはあくまでも小手先のテクニックだ。

 そうではなく、人生を使って、長い年月を使って、これをやるのだ。

 いや、別に長くなくてもいいのだが、とにかくもっと大きなスケールで、これをやるのだ。

 手っ取り早くいえば、日々全力で修行するということだ。
 ここでいう修行とは、行法だけではなく、教え通りに生きるということだ。
 布施・戒・忍耐・精進のパーラミターや、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念の七つの正道、あるいはヨーガのヤマ・ニヤマなど、とにかく、自分の心とカルマを浄化するために、日々、菩薩道、あるいはバクティ・ヨーガやカルマ・ヨーガなどの修行に励むのだ。

 それは自分のカルマやエゴと戦わなければならないので、非常につらいだろう。しかし全力で戦い、いくつもの壁を乗り越えるのだ。
 そうするとあるとき、なんというかまさに心地よい疲労感とともに、リラックスがやってくる。それはある意味「諦め」に似た感覚だ。何というか、エゴが、雑念が、暴れるのを諦めたような感覚だ。

 ところでこのような真のリラックスの状態に入り始めたら、そもそも瞑想における体の姿勢その他はどうでもいい、ともいわれる。確かにそれはそうなのだが、しかし良い姿勢、あるいは良い身体的状態が保たれれば、それに越したことはない。

 だから、真のリラックスを手に入れるための日々の「心の修行」と平行して、座法の安定、呼吸の安定、プラーナのコントロールといった、基礎的な修行を固めることにも努力しなければならないのだ。
 本当のリラックスがやってきたとき、その地道に練り上げた基礎が、役に立つ。
 そういった基礎的行法をじっくりやってきた者は、「ヨーギーの体」になっているので、完全なリラックスの中でも、体は最も瞑想に適した姿勢を自然に作り出してくれるだろう。

 逆にいうと、日々、自分と戦わない者、正しい生き方をしようと努力しない者は、どんなに長く修行しても、本当の瞑想にたどり着くことはできない。

 また、日々行法などの基礎的修行をおろそかにしていた者は、せっかく本当の瞑想に入れるようになっても、身体やエネルギーが手助けしてくれないか、あるいは邪魔になることがあるので、後で後悔することになるだろう。

 まあだから結局は、
 教学、帰依、菩薩道、バクティ・ヨーガ、カルマ・ヨーガ、
 そして日々の行法
 これらを地道に全力でやり続けるしかないということだ。

 それが正しい道であったならば、必ず正しい瞑想と正しい智慧は、あっちからやってくる。

 自分の心と戦え。
 負けてもいいから戦え。
 負けても何度でも戦え。
 言い訳せずに戦え。 
 全力で戦え。
 そのうちにリラックスはやってくる。

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