ラヒリ・マハーシャヤ(2)
(2)教育と家族生活
ゴウルモハンの祖先は皆宗教を重んじる家系で、彼らはしばしば巡礼に出かけていました。しかし巡礼に出かけるにも当時インドには鉄道もなく、徒歩か船で行かねばなりませんでした。そのため盗賊にあう心配もあり、巡礼は今日ほど容易ではなかったのです。
ゴウルモハンはカーシー(現在のヴァラナシ)にも数回巡礼に出かけており、カーシーは彼にとってはなじみの場所でした。
彼はグルニ村で暮らしていましたが、あるときから、家族と共にカーシーに移り住むことにしました。
なぜ彼がカーシーに住まいを移したかについてはいくつかの説がありますが、シャーマ・チャランが5歳の時、ゴウルモハンの2度目の妻のムクタケーシ・デーヴィーが他界したことが、おそらく第一の理由でしょう。このことでゴウルモハンは家庭生活に無気力になったのではないかと思われます。
二番目の理由は、ゴウルモハンの強い宗教心により、以前から巡礼地として親しみ深い場所だったカーシーを永住の地に選んだという理由です。
三番目の理由として、ラヒリ家に財政上の問題が起きたことが知られています。彼らの家はカレイ川の川岸に建てられていたのですが、あるとき大洪水により倒壊し、所有していた多くの土地もこの洪水で一緒に失ってしまったのです。
この事実から、ゴウルモハンがカーシーに移り住んだのは主に財政上の問題からだという意見がありましたが、それは正しくありません。なぜなら、このような災害にあったとしても、先祖から住んでいる土地を捨てることは普通はないからです。また、ゴウルモハンはまだそこに土地を持っており、この州に自分の家を再建することもできたのですから。
したがって、最初にあげたように、妻の死がゴウルモハンの宗教への渇望をいっそう強め、以前から巡礼地としてなじみ深かったカーシーに移り住んだと考えるのが妥当であると思われます。
ともかく理由は何であれ、ゴウルモハンは息子と娘たちと共にカーシーに移り住みました。長男のチャンドラカンタが、マダンプラ地方のシモン・チャウハッタに家を一軒購入していたので、皆でこの家に住むことになったのでした。
グルニ村での洪水のとき、ゴウルモハンが所有していた土地と共に、彼が建立した寺院も倒壊し、まつられていたシヴァ神の像も川底に沈んでしまいました。しかし1840年に、信者のひとりがその川底からシヴァ神の像をすくい上げ、それを新しく建てられた寺院に祀りました。この神像は水からすくい上げられたので「ジャレーシュヴァラ(水のシヴァ神)」と名付けられました。この地方は現在グルニ村のシブタラとして知られ、公有地となっています。
シャーマ・チャランが5歳になったころから、ゴウルモハンは彼の教育について考え始めました。ゴウルモハン自身が学者であったため、教育を重要視していたのです。
当時、保守的な考えでは、英語などの外国語は最下層民の言葉とされていましたが、ゴウルモハンには保守的な考えはなく、シャーマ・チャランを「ジョイ・ナーラーヤン・イングリッシュ・スクール」に入学させました。ゴウルモハンが多くの土地を失ってしまったために、息子には収入に結びつく教育がふさわしいと考えたのでした。当時、英語教育を受けた者は、容易に仕事につくことができたのです。
12歳になると、シャーマ・チャランは国立サンスクリット・カレッジの分校の中等学校に進みました。後にこの国立イングリッシュ・スクールは大学となり、彼は1848年までの8年間をここで学びました。
シャーマ・チャランは後に非常に多くの生徒を教える仕事をしたことから、高い教育を受けていたことが推察されます。英語、ベンガル語、ヒンドゥー語、ウルドゥ語の他に、ペルシャ語も学んでいました。その上、聖典語であるサンスクリット語も学び、ヴェーダ、ウパニシャッド等などの聖典に精通しました。
1846年、シャーマ・チャランは18歳で結婚しました。
ゴウルモハンのようにカーシーに移り住んだベンガル人達の中に、西ベンガルのハウラー地方ベルルの学者であるヴァチャスパティ・デープナーラーヤン・サンニャル・マハーシャヤがいました。彼は敬虔なブラーミンで、カーシーの博学な人たちの集まる会に入っており、とても有名でした。
また、この当時のカーシーの有名な聖者トライランガ・スワーミーは、デープナーラーヤン家からの施しだけは受け取ったとも言われています。
ヴァチャスパティはゴウルモハンと親交がありました。彼はゴウルモハンの住まいの近くであるカリシュプラ区に住んでいたため、しばしばゴウルモハンの家を訪れ、聖典について論議していました。
ヴァチャスパティは妻を亡くしてから一人で三人の息子と一人の娘カシ・モニを育てていました。カシ・モニは父に連れられてよくゴウルモハンの家を訪ねて遊んでいました。そこに集まった女性達から、冗談で「あなたは誰と結婚するの?」と尋ねられると、彼女はいつもハンサムなシャーマ・チャランを指さしていました。そして実際にカシ・モニ9歳のとき、18歳のシャーマ・チャランと結婚することになったのでした。
シャーマ・チャランは均整のとれた肉体を持ち、運動競技に優れ、水泳も達者でした。彼は生来まじめで威厳があり、同年代の人たちと無駄話をするようなことは一度もありませんでした。彼はどんな行ないでも一切間違ったことはせず、全ての点で鋭い判断力を持っていました。食べ物に関しても、出されなかったらそれを要求するようなことは一度もありませんでした。
1851年、23歳になろうというとき、シャーマ・チャランはガジプールのイギリス政府の陸軍技術省の会計官に任命されました。当時この陸軍技術省の仕事は、軍に必要な物資を送り、道路を作ることでした。後に彼は、ミルジャプール、ブザル、カトゥア、ゴーラクプール、ダナプール、ラニケート、カーシーなど、いろいろな場所で仕事をしなければなりませんでした。彼が仕事をした最後の期間は、兵営長の地位まで昇りました。
ガジプールでの任務期間中、彼の給与は充分ではなかったため、英国軍人たち数人にヒンドゥー語やウルドゥ語を教えて副収入としていました。彼はこのわずかな副収入を自分の小遣いにして、給与は家計のためにカーシーに送っていました。
1852年、ガジプールのオフィスがカーシーに移ったため、シャーマ・チャランはカーシーに転勤してきました。そしてその年の5月31日、彼の父親ゴウルモハンが亡くなりました。
父親が亡くなると、兄弟間での争いが勃発しました。普通の家庭に起こるような親族間の争いが、シャーマ・チャランにも襲ってたのです。しかし彼は細心の注意を払って家族を守ることを誓い、親族間での争いは短期間で収束しました。
また、彼の家族の生計はシャーマ・チャランの充分とはいえない収入に頼っていました。彼の家族はこの弱い収入基盤によって維持されていたのです。
これらの経験は何を意味するのでしょうか? 人々を救う特別な魂として生まれてきたシャーマ・チャランは、あえてこのような普通の人が経験する苦難を経験し、正しく乗り越えることによって、人々に道を示したのです。また、このような貧しい生活の中でも、人は徐々に人生を組み立てていき、修行を進めていくことができるということを、身をもって人々に示したのです。
「バガヴァッド・ギーター」においても、クリシュナはアルジュナにこうアドヴァイスしています。
「ジャナカ王のような人たちも、義務の遂行によって完成の域に達した。
ゆえに、世の人々に手本を示すため、君も自分のなすべき行為を立派に行ないなさい。
何事であろうと偉人の行為を、一般の人々は真似るものだ。
ゆえに、指導者的立場の者が模範を示せば、世のすべての人々はそれに追従するであろう。
プリター妃の息子よ! 私には、三界においてしなければならぬことなど何もない。
何の不足もなく、何も得る必要がないのに、それでもなお私は活動している。
なぜなら、もしも私が真剣に活動しなかったならば、人類も私に見習って、誰も活動しなくなってしまうからだ。プリター妃の息子よ!
私が活動をやめたならば、世界はやがて破滅するだろうし、望ましくない不純な人々を増やし、人々を滅ぼすこととなってしまうだろう。」
シャーマ・チャランも、あえて家庭人として普通の人が陥るような苦難や貧しさの中に身を置き、その中において真理の道を確立していくことで、人々に模範を示す道をとったのです。
1863年、奇しくもバガヴァーン・ジャガンナートの誕生日に、シャーマ・チャランの長男ティンコーリ・ラヒリ・マハーシャヤが生まれました。妻のカシ・モニ・デーヴィーは非常に静かで慈悲深く、賢く家事をこなしていました。厳しい家計の事情にもかかわらず、彼女は素晴らしい忍耐力で家事を処理しました。彼女の確かな判断力と堅実な家計のやりくりのお陰で、夫の僅かな収入からお金が貯められ、そのお金で1864年にはガルデースワ・モーハラに家を買うことができ、一家はそこに住み始めました。
1865年のカー・フェスティバルの日、彼らの二人目の息子、ドコーリ・ラヒリ・マハーシャヤが生まれました。次にこの同じ家で彼らの長女ハリマティーが1868年に、次女ハリカミニーが1870年に、末娘ハリモーヒニーが1873年に生まれました。
カシ・モニ・デーヴィーはかいがいしく働き、朝は早くからやって来る乞食に施しを与えました。夫の収入が少なかったので、自分の手で家事全てをこなしました。客人がしばしば家を訪れましたが、彼らが充分満足するよう自ら料理した食事をふるまいました。
その当時のインドの女性達は「女性が勉学に熱心になると、来世では堕落した女になる」という誤った認識を持っていたため、カシ・モニ・デーヴィーも最初、勉強することをひどく嫌がっていました。しかし夫のシャーマ・チャランが勉強が好きだったため、彼は妻にも自らいくつかの科目を教えました。こうしてカシ・モニ・デーヴィーはいくらかの学を身につけ、聖典も独力で読めるようになりました。
カシ・モニ・デーヴィーは、夫から手ほどきを受けたヨーガの修行法を訓練し、ついにはヨーガ修行の極地に達しました。そして1930年、彼女は93歳で、意識があるままこの世を去りました。
シャーマ・チャランは常に物事を正確に行ない、勤勉でした。日中はずっと事務所で働き、副業として個人教師も行ない、家人としての責任を果たしながらも、様々な社会福祉活動にも関わっていました。バンガリトーラ・ハイスクールが作られたのは、彼の尽力と、当時のカーシーの名士の協力によるものでした。
彼が疲れを知らなかったのは、彼の勤勉な性格と、堅い決意により実行された厳格なヨーガ修行のお陰でした。彼は、ヨーガ修行を強い決意で行なえば、家庭人であっても精神的な偉業が得られる、ということを人類に模範として示したのでした。
バンガリトーラ・ハイスクールが設立されると、シャーマ・チャランはその創立者の長となり、生涯その役目を遂行しました。彼が望んだのは、だれもが教育を受けられ、安定した生活がおくれるようになることでした。彼は学校を作るためのあらゆる努力を惜しまなかっただけでなく、生徒たちが正しい教育を受けているかどうか、学校の備品は正しく管理されているかどうかなどの監視も行なっていました。彼は前触れなく学校を訪れ、先生達が彼らの義務を完全に遂行しているかどうかを監視しました。
当時、インドにおいて、女性の教育は一般的ではありませんでした。しかしシャーマ・チャランは女性の教育の必要性を説いてまわり、何人かの著名人の援助を得て、女学校を設立しました。しかし保護者達の多くが娘達を学校にやるのを嫌がったため、その学校は結局閉鎖となってしまいました。
1864年3月、シャーマ・チャランは、ネパールのマハーラージャの4番目の王子、ナレーンドレー・クリシュナ・シャ・アリアス・カラノーの家庭教師に指名され、1866年3月4日には再びネパールの女王に同じ仕事を命じられました。
ラムモーハン・デーイはカーシーの有力な法律家で、シャーマ・チャランが最も親密にしていた家族でした。5人兄弟とひとりの姉妹マンモーヒ二ーがいましたが、彼らの父親は彼らが幼い時に他界していました。彼らの教育と成長に関して、シャーマ・チャランは多大な援助を与えました。
至高の魂の恩寵は、大きな影響を現わすものです。後にラムモーハンは法律専門家としてかなりの収入を得るようになり、その息子のタラモーハンもカーシーの名高い法律家になりました。また、義理の息子のドクター・S・C・デーヴは、アラハバード大学の英語学部長になりました。彼はまた、高名な文学者であり、哲学者でもありました。
彼の兄弟と姉妹は全員シャーマ・チャランからクリヤー・ヨーガのイニシエーションを受けていました。彼らはよく次のように述べていた。
「私たちは、両親からも得られないような深い愛を、グルから頂いたのです。」