ライトエッセイ あ・・・アーナンダ
最近は忙しくて以前のようにエッセイ的なものをじっくりと書く暇があまりないので、一話5分くらいで、あまり資料を調べたりもせず、またきれいにまとめようともせずに、50音順に思いついたワードについて思いついたことをつらつらと軽く書いてみようとシリーズです。まあいつまで続くかわかませんが笑
アーナンダは歓喜。修行における歓喜をあらわす言葉としては、他には「スカ」などがありますね。
ヨーガや仏教の修行によって生じる歓喜は、えもいわれぬものです。もちろんこれらの歓喜にとらわれてもいけませんが、とらわれる・とらわれない以前に、まず強烈な歓喜が生じてやまないくらいまでは修行を進めなければなりません。とらわれるかどうかの心配はその後にしたらいいでしょう笑
何度か書いているように、わたしはこの歓喜の経験は非常に多いのですが、一般的には現代では修行をしている人でもあまりそのような歓喜の体験は聞きません。それはいろいろ原因があると思いますが、一番はやはりバクティが足りないのではないかと思います。
この歓喜は精神的な強烈な喜びが生じるときもありますが、多くの場合、精神とも肉体とも言い難い、強烈な歓喜が心身を貫きます。それは激しいときは本当にのたうち回るような感じです。そして燃えるような歓喜、とろけるような歓喜など、多くの歓喜の種類があります。長くなってしまうので詳説は避けますが、例えばわたしの場合、何かに指を触れたり、呼吸をするだけで動けないくらいの歓喜になってしまい、パソコンも打てないし一般的な日々の行動がしづらくなって大変だった時期もありました笑
わたしの経験では、トンレンなどの慈悲や菩提心系の修行は、ものすごい強烈な歓喜を生じさせます。そしてさらにそれよりもすごいのが、マンダラ供養等の供養系の修行で生じる歓喜です。ですからわたしはこれらの経験からも、バクティと慈悲の修行を強く勧めるのです。
また、空の瞑想などの、自我をなくし、心を止めていく系の瞑想でも歓喜が生じます。心を止めているのに歓喜が生じるというのは変な感じがするかもしれませんが、実際にそうなんです。
密教では楽空無差別と言ったりしますが、それは方法論(甘露等によって歓喜を生じさせるとともに空の境地を生じさせ、それらを混ぜ合わせる)から言うとそういう表現になりますが、実際は我々の心の本性は純粋な歓喜なので、この表層の心を止めて歓喜が生じるのは、当たり前といえば当たり前のことでもあります。