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パトゥル・リンポチェの生涯(終)

 71歳の頃から、彼は1週間分ほどの食料を蓄え始めました。そしてそれは以前の彼には決して見られなかった振る舞いでした。それ以降、彼はどんな供物も決して受け取らなくなりました。もし受け取ったときは、すぐさま石の壁のための基金にしました。ときおり、彼は供物を捧げられたその場所に置きっ放しにしたので、貧しい人々は彼の後ろについて回り、彼が置きっ放しにした供物を集めるようになりました。

 76歳のとき、ツァ・マモ平原で彼は「浄土の大志の祈り」とマニ・カブムの教えを約1000人の人びとに説きました。その後、彼はどんな教えも公の場で説くことはありませんでした。彼のところへ教えを求めに来た者が誰であっても、テンジン・ノルブのところへ送りました。もし素直に聞かないものがいると、反対に彼らを叱りましたが、彼が叱れば叱るほど、彼らはより献身的になりました。それは彼の慈悲に満ちたハートと嘘偽りない言葉のためでした。

 77歳のとき、パトゥルはツァギャ・ゴンへ行き、ツァチュカを訪れていたゾクチェン5世を招待し、木の猿の年の猿の月の10日目を祝いました。

 78歳のとき、パトゥルは彼の生まれ故郷のコ・オーに戻りました。80歳のとき、火の豚の年(1887年)の4ヶ月目の13日目、彼は心臓病をいくらか患い始めました。その月の18日目、彼はいつも通り朝のお茶を飲みました。それから昼前、裸のままブッダの姿勢で座り、両手を膝に置きました。その場にいたケンポ・クンパルは、パトゥルの背中に衣服を着せようとしましたが、パトゥルは反応しませんでした。しばらくして、彼は目を瞑想の状態にしたまま、指を一度鳴らし、両手を思索のポーズにし、彼の心は原初的な純粋性の中に溶け込んでいきました。

 彼の死後、どんな価値ある物質も残りませんでした。残ったものは、一式の僧侶の衣服、一個のアルミ製の鉢、一枚の黄色いショール、一枚の下着、約10日分の食料、五つのアサンガの経典、そして一冊のマディヤマカーヴァターラのコピーでした。5枚の銀貨と数枚のスカーフもありましたが、それは彼がまだ石の壁の基金に送っていないものでした。それらが彼の一切の持ち物でした。

 ドドゥプチェン3世は、パトゥルの教えを以下のように記しています。

「彼がどんな教えを与えても、そこには学識をひけらかす痕跡は全くありませんでしたが、聞き手の理解力に沿うようにという意図がありました。彼の教えを分析するならば、それらは論理的であることと、有意義であるということです。もしそれらが怠惰な心で聞かれたとしても、容易に理解できるのです。彼の教えは簡略化されているので、容易に理解できるのです。それらは長さが適切で、テーマに関連しており、魅力的で、そして美味なのです。」

 パトゥルの人格に関して、ドドゥプチェン3世は以下のように記しています。

「パトゥルは恐ろしい、そして徹底的に乱暴な言葉も使いましたが、その中には嫌悪や愛著の痕跡は全くありませんでした。もしあなたが耳を傾ける方法を知っているならば、その言葉は直接的にまたは非直接的に教えそのものでした。彼が口にすることは真実であり、黄金のように中身のあるものでした。
 彼はあらゆる人びとを平等に扱い、決して人前でおべっかを言ったり、陰口をたたいたりしませんでした。彼は他の何かや誰かを真似たりも決してしませんでした。よって、身分の高い低いにかかわらず、すべての人びとが彼を正真正銘の教師として尊敬しました。
 彼は身分の高い者をひいきすることも、普通の人々を見下すことも全くありませんでした。良くない行いに関わっている者であっても、その者を変えることが可能あれば、彼はいったんその人物の過ちを掘り出し、目の前で明らかにしました。
 彼は精神的な向上を求める人々を称賛し、励ましました。
 彼は人に奉仕することがほとんどないように見えましたが、どんなに親しくなっても、彼の中にはひとかけらの不誠実さ、疑わしさ、感情の起伏、または偽善を見出すことはできませんでした。
 彼は変わらない友情を保ち、共にいて安らぎを感じさせました。彼には善悪両方の出来事に対して集中する忍耐強さがありました。
 彼から離れることは難しいことでした。彼は生涯を通じて隠遁修行者であったにもかかわらず、あらゆる点から見て健全であり、菩薩の振る舞いから外れることはありませんでした。
 『黄金は地下に埋められても、その光は空へと放たれる』という格言にあるように、人は彼を調べれば調べるほど、彼の清らかさや純粋さを見出します。彼について考えれば考えるほど、彼に対する信が増大します。」

 パトゥル・リンポチェの外見に関して、ドドゥプチェン3世は以下のように記しています。

「彼の頭は傘のように広く、顔は花開いた蓮華のようで、感覚器官は汚れなく清らかでした。通常、彼はほとんど病気をしませんでした。彼は子供の頃から偉大なる智慧と慈悲を持ち、また素晴らしく雄弁でした。」

 パトゥルの人生後半において長年そばにいたケンポ・クンパルは、彼の主要な祈りはマンジュシュリーナーマサンギーティの一つであったと記しています。パトゥルは世俗的な所有物がないだけでなく、学者や教師であるために最も必要と思われる宗教的な本も多くは持っていませんでした。時折、彼は入菩提行論やマンジュシュリーナーマサンギーティのコピーを持っていましたが、それは日々の祈りのためでした。しかし、時にそれらものを放棄したとしても、彼は心に記憶していたので、紙や木の筆を必要としませんでした。よって、彼はどこにいても、立ち上がるや、すぐにそこを発つ準備が整うのでした。

 パトゥルはスートラやタントラ、ゾクチェンといった哲学的な経典の教えを与え、多くの幸運な弟子たちの心に究極の悟りを目覚めさせたり、伝授したりしました。しかしながら、彼がイニシエーションを与えたり、手の込んだ儀式を行なうのは、ほんのまれな場合だけに限られていました。

 彼には教えや著述、修行における宗派主義が全くありませんでした。彼はチベットの伝統的な仏教を学び、修行し、教えました。彼は平等に様々な宗派の成就者たちを智慧のブッダとして見なしました。

 大いなる謙虚さと簡潔性を持つ彼は、多くの高貴で、裕福な、権力があり、有名な学者たちを弟子として受け入れました。お付の者を引き連れ金襴の衣装を身につけた多くの弟子たちが、この着古したぼろぼろで、つぎはぎだらけの服装をした世捨て人の下へやって来ました。また彼は十分に食べるほどのツァンパやお茶を淹れるための燃料さえほとんど持っていませんでした。彼の謙虚さが、金襴をまとい、馬に乗る者たちを恥ずかしく思わせ、彼らの弱さを曝け出させた時さえありました。
 あるとき、パトゥルは遊牧民のキャンプを抜けて、徒歩で旅をしていました。彼は疲れきっていたので、大きなテントを張っている家族の前で立ち止まり、2日間休ませてくれるよう頼みました。その家族が「あなたは祈りを唱えることができますか?」と尋ねると、彼は「少しばかりは」と答えました。彼らは喜んで彼を中に入れ、テントの低い隅に落ち着かせました。
 そのとき、多くの者たちは儀式に必要なものを用意し、いくつものテントを立て、高座を用意し、重要な儀式を行なうためにやって来るある偉大なラマとその一団のために美味な料理を作るのに忙しく立ち働いていました。2日後、偉大なラマが到着したという言葉を聞いて、彼らは皆ラマを迎えに外へ飛び出しました。しかしパトゥルは出ようとはしませんでした。人びとは彼に大声を上げ、ラマの前に彼を引きずり出そうとしました。金襴を身にまとったラマは、馬に乗り、手には旗を持った約40人の仰々しい従者たちを引き連れてやって来ました。その光景はまるで劇のようでした。その偉大なるラマはパトゥルを見るや、馬から飛び降り、その足元にひれ伏し、意味ある、つつましい姿をした偉大なるパトゥルの前で、自分の無意味で仰々しい姿を恥じました。そのラマはミニャク・クンサン・ソナムで、入菩提行論の有名な解説を書いたパトゥルの弟子でした。
 その日以来、そのラマは彼の仰々しい生活を放棄し、放浪修行者となり、決して馬に乗ることなく、旅をする際は常に徒歩で行きました。人びとはパトゥルが数多く示した能力の一つであるその千里眼によって、この結果を予知していたと信じました。

 彼の著作は、ゾクチェン、タントラ、スートラ、助言、戯曲の6巻にまとめられています。彼の一番有名な著作は、ロンチェン・ニンティクの準備修行に関する入念な解説書「サマンタバドラ・ラマの口頭の言葉(クンサン・ラマの教え)」で、またゾクチェン瞑想に関する短いながら驚くべき解説書「臨界点を打つ3つの言葉」、そしてアビサマヤーランカーラの解説書があります。

 東チベットで、おそらくパトゥルは多くの僧侶のために「入菩提行論」を小冊子にするのに最も大きな働きをしました。また彼のおかげで、「アミターバの祝福に満ちた浄土に転生するための大志の祈り」は、多くの在家の人びとのための日々の祈りとなり、グヒャガルバ・マーラージャーラ・タントラは、ニンマ派のタントラ的伝統の土台となり、ゾクチェンの教えは単に伝統的な経典であるだけでなく悟りのための瞑想となり、とりわけオーム・マニ・パドメ・フームは多くの人びとの永続的な呼吸となったのでした。

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