パトゥル・リンポチェの生涯と教え(70)
◎ギャルモ・ロンの東の山峡からやって来たギャルワンへの助言
ここに、教えを実践したいと願う者たちに向けて書かれたいくつかの要点がある。
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まずは、教えを実践したいのだが実践できていないという場合、まだ誓いを十分に強く立てることができていないのである。狂人のようにがむしゃらに、徹底的な決意をしなければならない。資格ある師の助言に耳を傾け、その他の人の助言には耳を傾けてはならない。
この心からの誓いを立てた後、心を調御するために「心をダルマに向かわせる四つの考え」を用いて、前行を始めなさい。
次に、あなたに良いことや悪いこと、何が起ころうとも、一般の俗世間に心を奪われることは、まったくゴマの粒ほども意味がないと見極めなさい。
輪廻の一般的な事柄に対し、――まるで肝臓炎を患っている人が、脂ぎった大量の食事を給仕されるときのように――ある意味自然に嫌悪感をもって見ることができるようになるまでは、あなたはおそらく、扉に尻尾をはさまれた雄牛のように、活動過多な世捨て人になるであろう。
もし、ほんの一時的な放棄の衝動に駆られて世俗の活動を放棄する気になったとしても、あなたは結局、「悟ったヨーギーになり損ねた男」、「疲れ切った偉大な瞑想家」という結果に終わることになるだろう。それはあたかも、固くなって駄目になったブーツを水に浸して、いつか再び柔らかくなるという期待を抱いている者の如くである。
「心をダルマに向かわせる四つの考え」を完全に理解し、世俗の生活を本当に放棄できるようになるまでは、マントラを唱えたり、修行のために世俗の活動を放棄したりする必要はない。これは重要なことである。
逆に言うと、輪廻に対して失望するという確固とした経験、放棄の本当の感覚、不変の信仰心、強い確信の感覚の経験が始まったら、あなたは、他者の意見にまったく影響されなくなる――つまり、第一ステップを踏み出したのである。
このときは、友や敵から遠離し、計画を捨て、友やパートナーの意見に左右されることなく、世俗的な義務として為さねばならぬことをすべて無視すべきときなのだ。これは、上司と部下を無視すべきときである。これは、罠にかかった野生動物が自由の身となるために尽力するように、自力で運命の手綱をとり、逃げ出すべきときなのである。
修行の核について言うと、身体と言葉を使った修行は、最も効果的というわけではない。心を使った修行の方がより一層効果的なのだ。まるで身体と言葉が召使いで、心はその主人の如くである。
修行の目的について言うと、根(帰依と菩提心を培うこと)がなくては、木(誓いと教え)は育たないということを理解しなさい。そしてそれらがなくては、花(見解と行為)が咲くことはなく、果実(生起と完成の段階)は実らない。
ダルマの完全なる道の源は、帰依と菩提心を培うことである。これら二つは、八万四千あるダルマと九つの段階的乗り物の根である。これら二つは、道の土台であり、エッセンスであり、本幹でもあり、生命力でもある。これらなしでは、ダルマはただの死体に過ぎない(あるいは死体の欠片に過ぎないとさえ言える)。何のエッセンスも含まないものになってしまうのだ。
これらの二つの根については、多くのことが語られている。簡潔に言うならば、帰依とは、至高なる三宝に対する完全なる信を培うことである。菩提心を培うということは、無数の衆生が、かつての生においては自分の両親だったことがあるということを知って、そのときから彼らを幸福にしたいという願いを決して捨てないと誓い、究極的には彼らのためにブッダの境地に到達しようと決意することである。
羊の毛を掴もうとするのではなく、羊の足をしっかりと掴め。つまり、言葉に捕らわれるのではなく、しっかりと実践せよ。師から教えを受け、グルヨーガ(グルの究極なる本性と合一する)、ポワ(意識の移し替え)などの、あなたがアビシェーカを授かった、ダイレクトでスピーディーな道の修行を実践しなさい。
しかしもしどうしてもそれらができない場合は、善き心でマニ・マントラを唱えなさい。それで十分である。
絶え間なき精進と過酷な忍辱という生命力に突き動かされて道を進まない限りは、たとえ九乗の経典についてよく知っていたとしても、一生でブッダの境地に到達することはできないだろう。
いつかあなたは、三宝をいう言葉を聞くだけで悟りの境地に達するということを理解し、確信を持ちなさい。
シュリー・シンハにて、パルゲ著
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