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バクティの精髄(9)


◎祈り

 子供の頃、われわれは必要な時に、両親、年長者、保護者に祈った。――彼らに助けを求め、助言を求めた。青年になると、われわれは自分自身に――自分の潜在的な能力、力に――祈ることを学んだ。われわれは、他者に頼らずに自立しようと努力した。しかし、この祈りには限界がある。われわれは、他の何か、自分のキャパシティを超えたもの、人間の力では及ばないものが必要であると感じると、観念して自分を神に明け渡し、神の助け、神の導きのために祈りを捧げるようになる。われわれは祈りに対する、神の明らかな返答を受け取る――まったく疑いの余地もない形で。われわれが少しばかり誠実で信仰深くなった瞬間に、われわれの祈りを聞き遂げた内なる力は、われわれの望みを叶えてくれる。

 自己を神に委ね、エゴを神の御足に明け渡したバクタに関して言うと――彼は世界のすべてを忘れ去り、確実に彼を救済し、唯一彼を助け導くことができる神のこと以外、何も考えることはない。彼は自分の意志を神の意思に合わせ、神の導きに従って行動する。彼の中には、個性や行為者性の感覚はまったくない。彼は、神の意思が自分の意志であり、神の意思に従って行動しなければならないということを知っている。それは、プルシャールタ(人間の人生の四つの目的――ダルマ、アルタ、カーマ、モークシャ)を奪われるということであろうか? それはもちろん違う。なぜならば、彼は自己を虚しくして、主へと明け渡したからである。彼には、神の恩寵が絶えず流れている。彼の性質は神聖化されたゆえに、彼は自然と正しい方向へと努力する。まさに、自己の明け渡しこそが最高のプルシャールタなのである。

それに対して、ヴェーダーンティンにとっては、祈りとは原則的に、内なる自己――真我――つまり、すべての中に内在する宇宙意識に対してのものということになる。初期段階においては、彼は祈りをある種の欲求――それは現世的なものなのかもしれないし、霊的なものかもしれない、あるいは動機があるものなのかもしれないし、動機がないものなのかもしれないが――と見なす。そして彼は、十分にサーダナーが進むと、いわゆる欲求というものを、最終的に直観の霊性の眼を開き、宇宙の意思と合一する意志であると見なすようになる。

 ガザーリー(ペルシアのイスラムの神秘主義者)によると、祈りには三つの段階がある――言葉によるもの、精神的なもの、そして主の意思と同化したものである。
 第一段階において、バクタは神の栄光を歌い、神の讃嘆を唱え、美しい賛歌の中で心の苦悶を吐き出す。
 次に、心が落ち着き、継続した実践によって外界に向かう感覚が抑制され、心が簡単には悪しき影響を受けなくなると、祈りは精神的なものとなる。――物理的な努力が必要なくなるのだ。
 第三段階において、心が神に集中し、外界への興味を失って、愛著や渇愛のない憂いなき状態となると、祈りは無意識のものとなり、自然なもの、不断のものとなる――それは最高の段階である。主の意思は彼自身の意志となる。なぜならば、彼の祈りによって呼び出された神は、彼の心――彼の意志と一体化しているからである。彼には自我意識はまったくなく、彼は主の中に住まい、彼の心は完全に主で満たされている。彼は外界のものも、内側のものも認識しない――彼は自分が主に祈っていることさえも、そして自分が主の意思に没頭していることさえをも、忘れているのである――彼には漠然とした二元性の感覚がないのだ。しかし、彼は唯一一つの経験――主と一体化しているということを経験している。

 祈りは感情――深く、穏やかな、核心に誠実さをもつ感情で満ちている。しかし、祈りが実際の誠実さよりももっと感情的であったり、軽はずみなものであったりすると、それはむしろ未熟なものとなり、効果がなくなる。われわれが神から直接的な返答を受け取ることができない理由は、ここにある。
 祈りには因果関係がある。――祈りの返答の質は、主に祈りを捧げる人の内なる性質、その人のものの見方の性質とその中心となっているもの、その人が必要としているもの、信、そして祈りに不可欠な誠実さに依存している。

 ときに、われわれの祈りの本旨は、利己的で、極めて世俗的で、理不尽で、不合理になることがある。われわれは利己的な目的を切望し、世俗的な欲望の成就を切望する。ときにはわれわれは、邪悪な欲求を叶えるために祈りさえもする。われわれが否定的な果報を経験する理由はここにある。
 本来、祈りは、可能な限り無私でなければならない。われわれはまず、他者の幸せを祈り、世界の幸福、平和を祈り、そして自分の霊性の進化を祈らなければならない。――われわれは、自分の悪しき性質の根絶を祈り、智慧と叡智、そして聖者性を得られるように祈らなければならない。

 アサトー マー サット ガマヤ
 タマソー マー ジョーティルガマヤ
 ムリティヨール マー アムリタン ガマヤ

「非真理から真理へと導きたまえ
 暗闇から光へと導きたまえ
 死から不死へと導きたまえ」

 これは最高の祈りである。――光を祈り、真理を祈り、不死を祈る。求道者の最高の祈りは、無智の除去であるべきである。求道者の目的は、真理を悟ることであり、非真理という網から解放されることである。求道者の目的は、本質的な神の本性を悟ることなのだ。

 ときに、誠実な祈りにも返答が来ないときがある。しかし、われわれはこれにも決して、信や誠実さを損ねてはならないし、失望したり意気消沈してはならず、これをわれわれの誠実さ、平静さ、神への信を試すのに必要なことなのだと見なさなければならない。
 ときに、この祈りへの無返答が何度も繰り返されることがある。バクタは当惑し、神への信を失い始め、ときに道から外れてしまう。まさに、われわれが忍辱、不動心、神の恩寵への信を示すのは、ここにおいてである。神はしょっちゅう、非常に厳しい試練でわれわれをテストする。しかし、それは神が意地悪であるということなのだろうか?――神はわれわれの祈りに耳を傾けたいと思っておられないのだろうか?――そんなことはない。これは、求道者たちが通らねばならない試練なのである。彼の信はまだ十分に強くないかもしれない。彼の心の不純物は、まだ残っているかもしれない。彼の心はまだ純粋ではないかもしれない。どうしたら彼の信は強くなるのか? どうしたら、彼は心の不純物を取り除き、心を純粋にできるのだろうか? それは試練、テスト、苦難によってのみである。ちょうど黄金が何度か溶鉱炉を通ることで純化されるように、何度も何度も、試練という溶鉱炉を通ることで、心は純化され、信は確固としたものとなっていく。しかし最後の最後には、すべての祈りは叶えられ、最高の達成をもって満たされる。ゆえに、神に対して祈るとき、あるいは神からの恩寵を望むときは、喜んでその無返答を受け入れる覚悟をすべきであり、試練や苦難さえをも受けて立とうと覚悟すべきなのである。

 祈りは、心の不純物を清め、心を揺るぎないものにする。それは、神聖なる感情という純水で、ハートの不純性を洗い落とし、欠点や短所を正し、真我の叡智を得るための覚悟を心に決めさせる。
 危難や災厄の時、幾多の祈りは驚くほどの効果を発揮する。死者への祈りは、彼らに安穏をもたらす。

 祈りは、重力と同じくらいリアルなものである。祈りは、理屈が入り込むにはあまりにも微細である領域に到達する。祈りは奇跡を起こす。祈りの凄まじい効果は筆舌に尽くし難い。祈りの秘められた力は、実際に経験しなければ、とても理解することはできないであろう。

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