バクティの精髄(5)
「心を調御し、エゴを滅せよ。」
これはあらゆるヨーガのエッセンスである。どんな名前のヨーガでも、それに用いられるどんな方法論でも、実現すべき理想は、心とエゴの死滅なのだ。そしてこれは、非常に優しく、簡単といわれるバクティヨーガにおける理想でもある。感情を抑えることができず、森へと逃れゆくことができない人の場合、感情を神に向け、世界に存在する者として、神を見神するほかに方法はない。これが、バクティ・サーダナーのエッセンスである。したがって、バクティは、ウパニシャッドに述べられているような真我への愛の顕われにほかならない。呼び名に違いがあるだけである。――ある者はそれを真我と呼び、またある者はそれを神と呼ぶ。名前はそんなに重要なものではない。名前を考慮するのは感覚的なものである。そして、それは同一のものである。
自己の明け渡しは、バクティの最高のかたちである。自己の明け渡しとは、エゴ(個)の明け渡しである。そして、そこで残ったものが、ヴェーダーンティンのいう「絶対なるもの」である。したがって、ヴェーダーンタとバクティの最高のかたちの間には違いはない。バクタはエゴを明け渡し、ヴェーダーンティンはエゴを分解する。いずれにせよ、そこにエゴは存在しないのである。それら二つの理想は同一なのである。米を食べようが、小麦を食べようが、まったく同じことであろう。それら二つの目的は、空腹を満たすことである。そして、それら二つの間に、論争はあり得ない。バクティに従おうと、ヴェーダーンタに従おうと、その結果はエゴの破壊なのである。それは真実である。
バクタには二つの種類がある。ある境地のバクタは、自分以外はすべてが神であると感じる。彼は、自分は唯一、神ではない者であり、それ以外はすべてが神であるというように感じるのである。
高位のバクタは、自分は神と一つであり、何の独立した経験を持たないと感じる。彼のエゴは完全に根絶される。これはパラー・バクティであり、ヴェーダーンタの悟りである。ここで、彼の感情は止まり、彼は波のない寂静の海となる。彼の心は静まり、普遍なる真理へと溶け込む。これが、ヴリンダーヴァンのゴーピーたち、そしてゴウランガ・マハープラブのような最高のバクタたちが経験したバクティの最高峰なのである。