バクティとジュニャーナの調和、勇敢なる戦士の理想
[建設中のベルル・マトにて 一八九六年]
弟子「どうかスワミジ(ヴィヴェーカーナンダ)、バクティとジュニャーナはどうやったら調和させることができるのか教えてください。信仰(バクティ)の道の信奉者はシャンカラの名には一切耳を貸さず、また、叡智(ジュニャーナ)の道の信奉者は、主の御名に没頭しながら滝のように涙を流し、恍惚境で歌い踊っているバクタを狂信者と呼んでいます。」
スワミジ「その対立は、ジュニャーナとバクティの準備段階で起こるものだ。シュリー・ラーマクリシュナが語ったシヴァの幽霊たちとラーマの猿たちの話を聞いたことがないか?」
弟子「ええ、あります。」
スワミジ「至高のバクティと至高のジュニャーナには一切の違いがない。
至高のバクティとは、プレーマ(愛)そのものの現われとしての神を悟ることだ。もし、あらゆる場所に、あらゆるものの中に顕現しておられる神の愛おしい御姿を見れば、他者を嫌悪したり害したりできないだろう。心の中に少しでも欲望がある限り、この愛の悟りは決して生じない。また、シュリー・ラーマクリシュナはよくクフィマ・カンチャナ(感覚の喜び、富)への執着のことを仰っていた。愛の完全なる悟りにおいては、肉体意識も消えてしまう。
同様に、至高のジュニャーナは、至る所に不二一元を悟り、すべての中に真我としての自分を見る。この悟りは、エゴ(アハム)の意識が少しでもある限り、生じない。」
弟子「ならば、あなたが愛と呼ぶものは、至高なる叡智と同一だということですか?」
スワミジ「ご名答。愛の悟りは完全なるジュニャーニにならない限り、生じることはない。ヴェーダーンタは、ブラフマンはサット・チット・アーナンダ――絶対の実在・叡智・至福――と言っていないか?」
弟子「はい、言っております。」
スワミジ「サット・チット・アーナンダという言葉は、サット――つまり実在、チット――つまり純粋意識あるいは叡智、アーナンダ――つまり至福あるいは愛、という意味である。ブラフマンのサットの様相においては、バクタとジュニャーニの間で論争は存在しない。しかしジュニャーニはブラフマンのチット(叡智)の様相を強く主張し、バクタはアーナンダ(愛)に強いこだわりを持っている。だが、チットの本質が悟られるや否や、アーナンダの本質も悟られる。なぜならば真実には、チットであるものは同様にアーナンダでもあるからだ。」
弟子「ならばなぜ、インドにはこんなにも多くの宗派が蔓延しているのですか? そしてなぜこんなにも長期にわたって、バクタとジュニャーニの間で論争が繰り広げられてきたのですか?」
スワミジ「簡潔に言うと、争いと論争が行なわれている理由は、前段階の理想――すなわち、真のジュニャーナ、あるいは真のバクティを得るために掲げる理想と関係がある。お前は手段と目的のどちらが優れていると思う?――確実に、手段は目的よりも劣っている。なぜなら、まさに個々の信奉者の気質や心のキャパシティに応じて、同様の目的を悟るための手段は数多く存在するからである。数珠を繰ること、瞑想、礼拝、聖火に供物を捧げること――これらすべて、あるいはその他のかくの如きものは、宗教の手足である。これらはまさに手段なのだ。そして至高なる信仰(パラー・バクティ)に到達すること、あるいはブラフマンの最高の悟りに到達することは、一目瞭然たる目的である。
もう少し深く詮索してみれば、彼らが何について争っているのか理解できるだろう。ある者はこう言う、『東を向いて神に祈るなら、あなたは神に達するだろう』と。またある者はこう言う、『いいや、西を向いて座らないと、神を見ることはできない』――おそらく遥か昔に、東を向いて瞑想に座り、神を悟った者がいたのだろう。そしてその弟子がすぐさまこの考え方を広めだし、この方向を向かない限り神を見ることはできないと断言したのだ。そのとき別のグループがやってきて、こう尋ねる。『それはどういうことですか? これこれの人は西を向きながら神を悟りました。われわれはそれを自分自身の眼で見たのです』――このようにして、宗派というものが始まったのだ。ある人はハリなどの主の御名を唱えることで至高なる信仰を獲得したのかもしれないが、そうするとすぐさま、そのことがシャーストラ(聖典)の詩に書かれてしまう。―――『主ハリの御名、主ハリの御名、主ハリの御名だけ。カリユガ(カリの時代)においては、まさにそれだけしか、それだけしか、それだけしか道はない。』 また別の人が、今度はアッラーの御名を唱えて完成の境地に達したとする。そうするとまたすぐさま、その人によって宗派が作られ、広められていくのだ。しかしわれわれは、これらの信仰、あるいは修行によって導かれるその先にある終着点が何なのかということを理解する必要がある。終着点はシュラッダーである。
ベンガル語には、このサンスクリット語の『シュラッダー』という言葉の同義語は存在しない。ウパニシャッドには『シュラッダーはナチケータのハートの一部となった』と説かれている。エーカ・グラタ(一点集中)という言葉でさえ、シュラッダーという言葉の全貌の意味を表わすことはできない。エーカ・グラニシュタ(一点集中の信仰)という言葉は、ある程度のところまでシュラッダーの言葉の意味を表わしている。もし、確固たる信仰と集中をもって何かの真理を瞑想するならば、心がますます唯一なるものへと向かう――つまり言い換えれば、絶対なる実在・叡智・至福の悟りにお前を連れて行ってくれるのが分かるだろう。
バクティやジュニャーナについて書かれた聖典には、生活の中で何かしら一点集中できるもの(ニシュティ)を取り入れ、それを自分のものにしなさい、と一種独特なアドバイスが書かれている。時代の堕落に伴い、これらの偉大な真理は歪められ、徐々にデーシャチャラ(国の慣習)に変貌して広がっていった。これはインドだけでなく、世界中のあらゆる国、社会で起こってきたことだ。そして民衆は識別力がないゆえに、それらを不和の種にしてしまい、互いに争うのだ。彼らは目的を見失い、それゆえに宗派主義に陥り、不和を起こし、争い続けている。」
弟子「ならば、救いの手段は何なのですか?」
スワミジ「それは昔と変わらない。――真のシュラッダーだ。シュラッダーを再び現代に復興させなくてはならない。すべての信仰とすべての道の中に、時と空間を超えた真実があるのは確かだが、かなりの量のガラクタがそれらの上に積み重なっている。このガラクタを一掃し、真の永遠なる真理を人々の前に開示しなくてはならない。そうして初めて、本当の意味でわれわれの宗教と国はプラスの方向に向かっていくようになるだろう。」
弟子「どうやってそれを成し遂げるのですか?」
スワミジ「わからんのか。まず最初に、われわれは偉大なる聖者方への礼拝を紹介しなければならない。永遠なる真理を悟った偉大なる魂たちを、模範にすべき理想として、人々に紹介するのだ。例えばインドの場合は、数ある聖者の中でもとりわけ、シュリー・ラーマチャンドラ、シュリー・クリシュナ、マハーヴィーラ(ハヌマーン)、そしてシュリー・ラーマクリシュナだ。おまえはシュリー・ラーマチャンドラとマハーヴィーラへの礼拝をこの国に導入することができるか? シュリー・クリシュナのヴリンダーヴァンでの様相は今は置いておいて、獅子の声でギーターを叫び、シュリー・クリシュナの礼拝を至る所に広めなさい。そして、シャクティ――すべての力の源である母なる神への礼拝を毎日の勤行とするのだ。」
弟子「では、ヴリンダーヴァンのゴーピーたちとなされたシュリー・クリシュナの聖なるお遊び(リーラー)は、望ましくないものであるということですか?」
スワミジ「現在の境遇においては、その信仰はおまえにとって全く利益がないものだ。横笛などで遊んで、国が再建されるか。われわれが今もっぱら必要としているものは、頭頂から足先までの全身の血管をゾクゾク震えさせるような、とてつもないラジャスの精神を持った英雄――真理を知るためには平気で命を捨てる勇気のある英雄――放棄の鎧と智慧の剣を身にまとった英雄の理想だ。われわれが今欲しているのは、人生という戦場における勇敢なる戦士の精神であって、人生を喜びの園と見て恋人に求愛する精神ではない!」
弟子「では、ゴーピーたちの理想に描かれているような愛の道は間違いということですか?」
スワミジ「誰がそんなことを言った? そんなことは言ってないだろう! それは非常に高度な修行(サーダナー)なのだ。感覚の喜びや富に対して強烈な執着を持っているこの時代では、ほんの少数の人を除いては、そのような高度な理想を理解することさえできないだろう。」
弟子「では、神を夫や恋人として礼拝している人たちは、まっとうな道を進んでいないということですか?」
スワミジ「あえてここでは、『進んでいない』と言おう。もちろんその中には例外として、立派な修行者も何人かはいるかもしれないが、覚えておけ、その中の大半が、暗黒のタマスの性質に取り憑かれている。その者たちのほとんどは完全に病的であり、異常なほどの心の弱さに侵されているのだ! この国は絶対に蘇らなくてならない。マハーヴィーラ(ハヌマーン)への信仰を広めるべきだ。シャクティ・プージャーを日々の勤行に取り入れるべきだ。すべての家々でシュリー・ラーマチャンドラを礼拝すべきだ。その中にお前たちの幸福はある。その中にこの国の幸せがあるのだ。――これ以外に道はない。」
弟子「しかし、バガヴァーン・シュリー・ラーマクリシュナは、しょっちゅう神の御名の歌を歌っていたとお聞きしたのですが。」
スワミジ「まったくその通りだ。だが、あの御方は別ものだ。あの御方と一般人を比較できるか? 彼は、あらゆる宗教が真実には一つの真理に通じているということを示すために、人生を通してさまざまな宗教の理想を実践された。おまえやわたしが、彼の為したことをすべてやれると思うか? われわれは一人として、彼を完全に理解してはいない。だからわたしはあえて、所かまわず彼について話したりはしなかった。彼だけが、その彼の本当の正体を知っている。彼は、体が人間であったというだけで、その他のすべては他の人たちとは完全に違っていた。」
弟子「失礼ですが、あなたは彼がアヴァターラ(神の化身)であると信じているのですか?」
スワミジ「まず一つ聞くが――お前の言うアヴァターラとは何だ?」
弟子「もちろん、シュリー・ラーマチャンドラ、シュリー・クリシュナ、シュリー・ガウランガ、仏陀、イエスのような御方のことです。」
スワミジ「わたしはバガヴァーン・シュリー・ラーマクリシュナが、今お前が名前を挙げた方々よりもさらにが偉大であるということを知っている。信じているかどうかなどを口にするとは――くだらぬことだ。――そんなわかりきったことを! まあいい、もうこの話はやめにしよう。この続きはまた別の機会ということに。」
少し間をおいてから、スワミジはまた続けられた。
「ダルマを再建するために、マハープルシャ(偉大なる魂)たちは、その時代と社会の必要性に合わせてやって来る。その者たちをお前がマハープルシャと呼ぼうが、アヴァターラと呼ぼうが、それはあまり問題ではない。彼らはそれぞれの生涯において、その理想を説き示す。そして次第に、彼らの鋳型に合わせて”型”が――つまり”人間”が作り上げられるのだ! そしてだんだんと宗派ができて広がっていく。時の経過と共にそれらの宗派は堕落していき、また再び宗教改革者が現われる。――これは河の流れのように、終わることなく連綿と、時代時代を流れてゆく。」
弟子「なぜあなたは、シュリー・ラーマクリシュナがアヴァターラであると説かないのですか? あなたはそれを説くために必要な力、弁才などのすべてを間違いなく持っておいでです。」
スワミジ「正直なところ、わたしは彼をほんの少ししか理解していないのだ。彼はわたしにとって偉大過ぎるがゆえに、彼について何か話そうとすると、真実を言い逃してしまうのではないかと、わたしのわずかばかりの力では彼のことを説くのに不十分なのではないかと、彼を讃嘆しようとして自分の見方で彼の絵画を描き、その絵画を贈呈などして、それによって彼を軽く扱ってしまうのではないかと恐くなってしまうのだよ!」
弟子「しかし、多くの人たちはもうすでに彼をアヴァターラであると説いていますよ。」
スワミジ「そうしたい者たちにはそうさせておけばいい。その者たちはその者たちなりの観点で説いているのだ。おまえだって、彼を理解したというのなら、同じように説いてくればいいじゃないか。」
弟子「わたしは、あなたのことさえも理解できていないのですよ。シュリー・ラーマクリシュナのことなんて説けません! もしあなたの恩寵を少しでも得られるのなら、わたしは自分をこの世において祝福された者であると見なします。」
(「ヴィヴェーカーナンダとの対話」より)
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