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ド・キェンツェー・イェシェー・ドルジェの生涯(15)

 鉄の蛇の年(1821年)の第1の月の13日、ド・キェンツェーは、光に包まれた空に、おびただしい光線を放つ光の身体をしたドドゥプチェンがいるのを目にしました。ドドゥプチェンは四人のダーキニーに支えられて金襴の敷物に座っていました。本当にうっとりするような声で、彼は辞世の言葉を述べました。五色の光線がドドゥプチェンの心臓のアー字から放たれ、ド・キェンツェーに溶け込んできました。そのアー字から第二のアー字が現れ、ド・キェンツェーの心臓に溶け込んで来ました。しばらくしてド・キェンツェーは意識を失い、ヴァジュラの波の経験の中に溶け込みました。彼が意識を取り戻したとき、ラマはもういませんでした。三日間、彼は一切の粗雑な思考と微細な思考が溶解し、生来的な覚醒が自然と覚醒する状態の中にいました。その後、彼は大きな悲しみを感じ、ドドゥプチェンがこの世を去ったことを理解しました。

 彼はドドゥプチェンの弟子のぺマ・ラントル、キャンルン・ゴンポ・ギェル、ならびにチョイン・トデン・ドルジェに会い、教えを与えました。何ヶ月も後に、彼の妹と他の者たちがドドゥプチェンの死の知らせを携えてヤルルン・ペマコに到着し、妹はラマから託されたド・キェンツェーへのアドバイスを伝えました。彼はドドゥプチェンの墓参りをしにヤルルン・ペマコへ行きましたが、ドドゥプチェンの後継者としてとどまることは断りました。

 この頃、彼は着ている物を白のタントラの法服から、一般信者のものへと変えました。彼がしばしデゲに立ち寄った際、人びとは彼の新しい格好に驚き、当惑しました。またギェルウェ・ニュクに会った際、ド・キェンツェーはテルトンの法服を着るようにすすめられました。するとド・キェンツェーはこう答えました。

「私はテルトンでもなければ、僧侶の誓約を順守する者でないので、身にまとうべきはこの一般信者の服装なのです。」

 ゾクチェン・リンポチェは彼を称賛し、ポンロプは彼の残りの命をド・キェンツェーの命を延ばすために捧げました。ド・キェンツェーは猟師としてゴロクの無人の地をさまよい、多くの殺されたり死んだ動物や人の命を蘇らせました。

 1823年、彼の伴侶であるアキョン・ラチェンは、奇跡的な前兆を伴いながらカイン・ドルマという名の娘を産みました。カイン・ドルマは1841年にトキャプ国王と結婚しましたが、子供を生むことなく1855年に亡くなりました。

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