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ダッタートレーヤとホーリーマザーのお誕生日、クリシュナの衣のリーラーの日

 今日は、ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァの三大神が合一した化身とされるダッタートレーヤのお誕生日です。

 さらに、ドゥルガー女神の化身であるトリプラバイラヴィーの誕生した日でもあり、

 また、聖地ヴァーラーナシーを守護するシヴァの妃であるアンナプールナー女神が誕生した日であるともされます。

 また、以前も書きましたが、クリシュナを愛するヴリンダーヴァンのゴーピーたちが、「クリシュナが私の夫となりますように」という祈りをドゥルガー女神(カーティヤーヤーニー女神)に一か月間ささげ続けるという誓いの修行に入り、その一か月の誓戒の行が満行し、その果報として、クリシュナが現れて彼女たちの衣を盗むという一連のリーラーが展開されたのもこの日だとされています。

 また、ラーマクリシュナの妻ホーリーマザー・サーラダーデーヴィーの、西暦上の誕生日でもあります。
 
 祝福いっぱいの日ですね^^

 以下に、そのクリシュナがゴーピーの衣を盗んだリーラーの話と、ダッタートレーヤの教えの一部を掲載します。

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 そのような一ヶ月の誓戒の行が終了する満月の日の朝、彼女たちはいつものように河に到着すると、衣を岸辺に脱ぎ捨てて、クリシュナを賛美しながら、楽しくその水の中で遊び戯れたのでした。
 クリシュナはそれを知ると、彼女たちの礼拝に報いるために、仲間とともにその場所に向かいました。
 そして岸辺に到着すると、クリシュナは岸辺に脱ぎ捨ててあった乙女たちの衣をすべて集めて、急いでカダンバの樹の上にのぼり、乙女たちをからかうようにこう言いました。

「さあ、あなたたち、ここまでやってきて、自分の服を取るといいよ。僕は決して冗談を言っているわけじゃないんだ。あなたたちは誓いの行のせいで、疲れ切っているのだから。
 僕は真実しか言わない。だから、細い腰をしたあなたたちよ、一人ずつか、または全員一緒に、自分たちの服をここまで取りに来なさい!」

 このようなクリシュナのいたずらを目にすると、ゴーピーたちは愛の思いに圧倒されてしまい、顔を赤らめて互いに見つめ合うと、思わず笑い出しそうになりました。しかし彼女たちは裸で水から出るのが恥ずかしかったので、河から上がろうとはしませんでした。

 しかししばらく冷たい水に首までつかっていたため、彼女たちの体は冷え切ってしまい、どうか早く服を返して下さるようにと、クリシュナに懇願しました。しかしクリシュナはこう言いました。

「もしあなたたちが僕のしもべであって、僕の命令を何でも聞くのなら、さあ、唇に笑みを浮かべて、ここまで来て、僕から衣を受け取りなさい!」

 そこで乙女たちは、掌で局部を隠して、寒さに震えて身を縮めながら、河から上がってきました。

 乙女たちが寒さと恥ずかしさのあまりに死んだようになりながらもクリシュナの命令を実行したのを見て、クリシュナはその純粋な心を喜んで、微笑みながら、次のように言いました。

「あなたたちは誓いを守ろうとしたのに、服を着ないでヤムナー河に浸かった。これは水の神への冒涜なんだ。だからその罪を償うため、あなたたちは頭の上で両手を合わせて、大地にひれふした後で、僕から衣を受け取るのです。」

 ゴーピーたちは、自分たちが誓いへの冒涜を知らぬうちに犯していたと悟り、その罪を償い誓いを完成させるために、言われたとおりに、真っ裸のまま両手を頭の上で合わせて、クリシュナに向かって地にひれ伏して礼拝したのでした。なぜならクリシュナこそが、自分たちの罪をすべて洗い流せるお方であると、彼女たちは信じていたからです。

 クリシュナは、ゴーピーたちが素直に自分の指示通りに礼拝したのを見て大変喜び、彼女たちに衣を返したのでした。

 このように羞恥心を奪われるようなことをされても、彼女たちはクリシュナのことを悪くは思いませんでした。愛するクリシュナと一緒にいられること自体に、彼女たちは非常な幸福を覚えていたからです。

 自分たちの衣をそれぞれ身につけると、彼女たちは恥ずかしそうにクリシュナを見つめて、最愛の主と会えたことにうっとりしてしまいました。そしてあまりにも強く心をクリシュナに魅了されたために、その場から動くことができなかったのです。  

 クリシュナは彼女たちに言いました。
「ああ、汚れなき乙女たちよ。あなたたちが僕をあがめたいと願っていることを、僕は知っています。そしてそのことは僕も歓迎するゆえ、必ずかなえてあげましょう。
 焼かれた種は二度と芽を出すことがないように、僕に心をささげた人が、その後で輪廻の楽しみを求めようとしたとしても、その人の心はもう二度と輪廻の楽しみには向かわないのです。
 ああ、汚れなき貴女たち、もうヴラジャにお帰りなさい。あなたたちはもはや目的を遂げられたのです。やがて来る秋の夜、僕はあなたたちとともに遊戯を行なうでしょう。ああ、徳高き乙女たちよ。あなたたちはそのために、今まで女神をあがめて、誓いを守ってこられたのですから。」

 自分たちの願いをかなえられたことを知った乙女たちは、主の蓮華の御足を思いながら、幸せそうにヴラジャへと帰って行ったのでした。

 

※注・・・このエピソードの中で、衣とは、主と自分を引き離す偽りの自己を象徴し、局部とは、「自分」という思い、自尊心を象徴している。
 それら「主と自分を引き離す偽りの自己」を捨て、すべてを主の前にさらけ出し、裸の心で主に礼拝すべし、という意味が込められているといわれています。

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ダッタートレーヤの教え

『私は「大地」から、自分は他の生き物に踏まれても、彼らは神の意に沿って動いているのだと考え、決して心を乱さないという誓いを聞き、人はこの事実を悟って、自分のダルマから外れないようにすべきだと学んだのです。
 また敬虔な者ならば、「山」から、自分の行動はすべて利他の思いからなすべきであり、自分がこの世に生まれてきた理由も、ただ他者への奉仕のためだと学び、また、「木」の弟子となることで、他者に役立って生きることを学ぶべきなのです。

 修行者は、生命の維持のためのみに食物などを求める「風(プラーナ」のあり方にならって、必要最小限のもので満足すべきであり、決して感覚を喜ばせるもので自分を甘やかすべきではありません。しかし自分の判断力が飢餓によって損なわれないようには注意すべきであり、また言葉や心が感覚の楽しみへの欲望で乱されないように努めるべきだともいえるでしょう。
 さらに「風」が何にも執着しないように、ヨーギーは種々の性質を持つ対象の間を自由に動きながらも、何の影響も受けず、何にもとらわれるべきではないでしょう。
 また「風」は種々の香りを運びつつもそれらとは別の存在であるように、ヨーギーは物質的な身体に入って様々な属性(細い・太い、美しい・醜い、弱い・強いなど)を与えられても、心を真我に固定して、それらの属性に影響されないようにすべきなのです。

 「空間」は、動不動のすべてを貫いても、何にも制限を受けないように、修行者は肉体という衣をまとっていても、常に遍満するブラフマンと一体であり、自分の本体である真我は何にも影響されないと知るべきなのです。
 空間は、風に動かされる雲とは何の関係も持たないように、グナから生じた火や水、地でできた肉体とは、真我は何の関係も持っていないのです。

 聖者は「水」のように澄み渡り、心は穏やかで、思いやりを持ち、すべてを浄化してくれるでしょう。そして人々はそんな彼の姿を見て、また彼の身体に触れたり、彼を賛美することで、自分たちも浄化されるのです。

 ヨーギーは「火」のように光輝に満ちて、修行の栄光で輝き、力に満ちあふれて、自分の腹以外に器を持たずに、真我と一体となっており、いかなるものを食べても影響されないでしょう。
 そして火のように、あるときは人の目から身を隠して、あるときは人々の前に姿を現し、祝福を求める者たちにあがめられて、供養する者の過去と未来の罪を燃やすのです。
 火は、それが燃える薪の形となって現れるように、すべてに遍満される主も、ご自身のマーヤーが生み出した、高等な、または下等な身体の中に入って、それらの姿となって顕現されるのです。

 時の力で生じる「月」の満ち欠けは、月そのものには生じず、月の相だけに関係するように、認めがたき動きをなす「時」によって生じる、誕生から始まり死に至る六つの段階は、肉体だけに生じるものであり、真我とは関係していないのです。

 火の中に炎があらわれては消えようと、火そのものは少しも変化しないように、奔流のように過ぎる時の流れは、絶えず生と死を人にもたらしても、真我には影響を及ぼさないのです。

 「太陽」は水分を吸い取っても、その水に少しも執着しないように、ヨーギーは感覚の対象を享受しても、少しもそれらに執着せず、時に相応しくそれらを捨てるのです。
 理解の低い者の目には、反射する媒体(水が入った器など)に太陽が映るや、それはその容器の中にあると見えるように、本質的にはただ一者である真我も、様々な衣(肉体)をまとうや、肉体を自分とみなす者には、それは別々にあると見られるのです。

 人は誰にも過度の愛情を抱くべきではありません。もし過度の愛情を抱くなら、彼はいつかは嘆く羽目になるでしょう。
 人間の身体は、解脱を得ることができる、たぐいまれな恩寵といえるのです。せっかくその身体を得たのに、家庭に執着し続ける愚かな者を、賢者は、一度上った高台から再び落ちた者だとみなすのです。

 ああ、王よ、賢者は、感覚器官による苦楽を追い求めるべきではありません。
 聖者は自分からは何も求めず、自然に手に入った食べ物だけを、その多少に関わらず、おいしくともまずくとも、ただそれだけを口にすべきでしょう。
 食べ物が手に入らないときには、無理にそれを求めようとせずに、食べ物を与えてくださるのは神であると信じて、何日も食事を摂らずに、忍耐強く暮らしていくのです。
 また彼は、健全な身体と心、感覚器官を持っていても、利己的活動をなそうとせず、意識はしっかりと目覚めて神を思うべきでしょう。
 深くて静かな澄み切った海のように、賢者は物静かで、威厳をそなえているでしょう。そして底知れぬ深さを持ち、誰にも支配されずに、時間と空間にも影響を受けず、好き嫌いの感情にも心を乱されません。
 川の水が流れ込もうが流れ込むまいが、海はそれによって満ち足り干上がったりはしないように、賢者は望むものを得ようと得まいと、そのことで喜んだり悲しんだりはせず、心はいつも主ナーラーヤナに帰依しているのです。
 
 主のマーヤーに他ならぬ女性を見るや、感覚器官を制御できない愚かな男性は、彼女の仕草や動きに心を惹かれて、炎の中に落ちていく蛾のように、自分から地獄の暗闇へ落ちていくでしょう。
 主のマーヤーで作られた、金の装飾品や着物、そして女性の身体を見るや、愚かな男性はそれらに心を魅了されて、それらを楽しもうと考え、識別の力を失い、蛾と同じように自滅してしまうのです。

 托鉢修行者は、朝食のために托鉢で集めた食べ物を、決して夕食や翌日のために蓄えるべきではありません。彼の手だけが器であり、腹だけが貯蔵庫であるべきなのです。彼は決してミツバチのように食べ物を蓄えるべきではないのです。もし蓄えるならば、彼はその食物と共に滅んでしまうのです。

 サンニャーシー(出家修行者)は、たとえ像であっても、足でさえ女性には触れるべきではありません。もし触れたなら、彼は雌象に誘惑されて人間に捕まる雄象のように、愛欲の思いに束縛されてしまうでしょう。
 賢者ならば、自分にとっての死そのものである女性を、決して求めるべきではありません。

 けちな者が苦心して集めた財産は、彼自身は少しも楽しまずに、布施をすることもなく、蜂蜜職人に蜜を奪われるミツバチのように、他の人がそれを奪っていき、さらにその者から別の者がそれを奪っていくでしょう。
 家長が楽しみのために苦心して集めた財産は、まずはサンニャーシーに最初に供養するべきでしょう。

 森に住むサンニャーシーは、決して低俗な歌を聴くべきではありません。
 鹿から生まれた聖仙リシュヤリンガは、女性たちの下品な踊りや演奏、歌を楽しんだために、女性の手に操られるおもちゃとなってしまったのです。

 何であれ、それを愛しいと思い、所有したいと思うことが、その人にとって悲しみの原因となるのです。この事実をよく悟り、何をも所有しようと思わぬ者は、永遠に続く幸福を味わうことができるのです。

 私は名誉も不名誉も感じずに、妻や家や子供に対する気遣いもありません。私は内なる真我にのみ喜び、真我の祝福を楽しみながら、幼子のように世界を流浪しているのです。
 ああ、王よ、この世ではただ二種類の人だけが、不安や憂いを持たずに、幸福に満たされて生きるのです。その一人は何の企みも持たぬ無邪気な子供であり、もう一人は三グナを超えて主を悟った者なのです。

 人は安定した座法を保ち、プラーナーヤーマをおこなって、離欲とヨーガを実践しながら、心を一つの対象に集中させるべきなのです。
 かの唯一者に心を集中するなら、カルマの汚れは徐々に除かれていき、サットヴァは強まり、ラジャスとタマスは抑制され、燃料がなくなって火が消えるように、ついには深いニルヴァーナの中に吸収されるのです。
 一心不乱に矢を作る職人は、王の行列がそばを通っても気づかないでしょう。同じように、真我に心を集中させてこの境地に至った聖者は、自分の内と外で何が起ころうとも、それらにとらわれなくなるのです。

 聖者は住まいを持たずに、ただ一人で世界をさまよい、決して油断することなく、心の中の洞窟に身を寄せるべきなのです。
 滅ぶべき定めにある肉体を持つ人間にとって、家を建てることは全く無意味であり、多大な苦しみが伴うのです。

 唯一者であられる主ナーラーヤナは、カルパの終わりに、カーラ(時)というご自身の力を用いて、かつてご自分がマーヤーで創造した物質宇宙を破壊されるのです。
 主ご自身の力である三つのグナが、同じく主の力であるカーラ(時)によって平衡状態に戻ると、その後には、原初の真我(アーディプルシャ)だけが存在するのです。
 そのお方は、解放された魂にとっての最高の目的地であり、ケーヴァラ(絶対存在)と呼ばれているのです。そしてそのお方は、何にも制限を受けることのない、広大な祝福の海であられるのです。
 主はまず最初に、誰の手も借りずに、三グナよりなるマーヤーを刺激して、宇宙の活動原理としての「糸」を創造されたのでした。
 この宇宙はこの糸に貫かれて、魂はこの糸によってこの世に束縛され続けるのです。
 蜘蛛が口から網を吐きだし、それと戯れ、最後にはそれを飲み込むように、主は自らの内から宇宙を創造して、それを維持し、最後にはそれを破壊されるのです。

 魂の目的を叶えることができる、人間というこの素晴らしい身体を、何生もの後でやっと手に入れたなら、賢明な者であるならば、その肉体が滅びるまでに、解脱に向けて懸命に努力すべきなのです。感覚の楽しみなどは、どんな生き物の身体でも味わうことができるのですから。
 私はすべての執着と自己中心的な思いを捨てて、離欲の思いを培い、智慧の火によって真我に自分を確立して、世界を自由にさまよっているのです。』

 ――ダッタートレーヤ

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