タクルのサイン
「タクルのサイン」
(「M――使徒にしてエヴァンジェリスト 続・ラーマクリシュナの福音」より抜粋)
1886年、シュリー・ラーマクリシュナは肉体を捨てられた。
Mは、師であり友である彼の死に大変なショックを受け、精神的にひどく落ち込んだ。
彼はタクルが亡くなった辺りの頃の出来事については、書くことも話すこともできなかった。
悲しみに打ちひしがれながら、Mは、自らの人生における師の見えざる御手のサインを探していた。
そしてある日、仕事に行くために路面電車を待っていると、Mは師ラーマクリシュナのサインを見つけたのだった。
彼はその話をこのように語っている。
「タクルが肉体を捨てられた。
そのとき私はオリエンタル・セミナリーで教師をしていた。私は同時に三つの学校の校長だった。そしてそれぞれの学校で一時間ずつ授業を持たなくてはならなかったから、籠や電車で移動をしなければならなかった。
ある日、ブッラバザールで電車を待っていると、そこに一人のサードゥがいた。
彼の顔はタクルそっくりでね。まるで子供のようにそこに座っていたのだよ。
それから私は毎日彼の隣に立って、日が差すときには彼に傘を差してさしあげた。
彼を見ると、私の心はタクルでいっぱいになった。
ある日、彼が私に、電車でハウラーに連れて行ってくれないかと頼んできてね、私は「いいですよ」と答えた。
そして彼のチケットを買い、彼をハウラー行きの電車に乗せた。
そのとき、彼が優しくこう言って、紙の小さい切れ端を私にくださったのだ。
『これを何かのケースに入れて、お守りとして持っておきなさい。
そうすれば、決して貧窮に陥ることはない。
あなたの苦悩は終わるだろう。』
電車が去ると、私はハウラーのポントーン橋に着くまで、幸福に浸りながら歩いていった。
そこでドッキネッショルの方をチラッと見たとき、タクルの言葉を思い出し、私は恥ずかしくてたまらなくなったのだよ。
私はその紙を額に付けて、ガンガーへ捨てた。
私は自分を恥じた。
タクルはいつも私を見守ってくださっているのだ。
彼はこうおっしゃられたことがあった。
『何を心配するというのだね?
おまえはすでに、グルを得るという恩恵を授かっているではないか。』
この偉大な言葉を思い出した瞬間に、私は本当に恥ずかしくなった。
それから私は至福感に満たされながら、安心して家に帰ったのだよ。」