シヴァ・ヨーガ・スートラ(1)「宇宙観」
シヴァ・ヨーガ・スートラ
このシリーズでは、ハタ・ヨーガに関する経典である「シヴァ・サンヒタ―」をもとに、私の見解も加味しつつ、まとめていきたいと思います。
このシリーズは、『シヴァ・サンヒタ―』をもとにしてはいますが、直訳そのものではありません。あくまでも私の経験や理解をもとに、私の独断で、様々なことを付け加えたり、削除したり、編集したりしていきますので、ご了承ください。原典そのものを読みたい方は、『続・ヨーガ根本教典」(平河出版)などをご参照ください。
第一章 宇宙観
【1】唯一の実体である叡智
唯一の、永遠にして、はじめも終わりもない、完全なる叡智が存在する。そのほかには、真実なる実体は一つもない。
この世に存在する雑多のものがらは、感覚器官という限定的付加条件によって、かの唯一なる完全なる叡智から顕現したものに他ならない。
さて、信心深い者を愛し、すべての生類に解脱を与える、われイーシュヴァラは、ヨーガの教えを説き明かそう。
論議を好む輩の、世人を迷妄に導く見解を捨てて、ひたむきに道に志す人々が、真我の叡智を得るようにと。
【2】行部門
聖典には、行部門と智慧部門の二部門があるとされている。まず行部門について説こう。
悪業をなすときには必ず罪が生じる。善業をなすときには功徳が生ずる。
カルマの結果には二種あると知るべし。天界と地獄とである。天界はさまざまであり、地獄もさまざまである。
功徳ある行為の結果は天界であり、罪の行為の結果は地獄である。
万物の創生は行為の行為(カルマ)の束縛によってなる。
天界においては衆生は種々の楽を受け、地獄界においては耐えがたい苦を受ける。
悪行の力で苦が生じ、善行の力で楽が生ずる。それゆえに、楽を望む者はいろいろな善行を励んで行なう。
天界においても、他人の繁栄を見たりすることで苦を感ずる。また、天界の生が終わるときに苦を感ずる。それゆえに、この全世界は苦しみであるということになる。これは疑う余地がない。
カルマの束縛からの解脱を願う者は、行為の果報への執着を捨てるべし。一切の執着なく行為を行ない、ヨーガの道に励むべし。
【3】智慧部門
「まことに真我こそは見るべく、聞くべきものなれ」などと聖典にある。
われは知性の働きを刺激して、善悪の道へ向かわせるものである。動くものも動かないものも、すべてのものがわれから展開する。万物はわれの内からあらわれ、そしてわれの内に消え去る。われは万物と分かれて存在せず、一物としてわれを離れては存在しない。
水を満たした無数の皿の中に、唯一の太陽の無数の影像が見える。それらの間には何らの差別も見られない。無数という数は皿という限定的付加条件に基づいて成立する。この巨大な数が唯一の太陽について成立するように、唯一の真我について無数の個我が成立するのである。
縄を蛇と錯覚したり、真珠を銀と錯覚するがごとく、宇宙万象は錯覚にすぎない。
それが縄であることに気づけば、錯覚である蛇の姿は消え去るがごとく、真我に到達すれば、錯覚によって成立しているこの宇宙万象は消え去る。
それが真珠であることに気づけば、銀だと思う迷いが消え去ってしまうごとく、真我に対する完全なる叡智が生ずれば、万象についての迷いは消え去る。
目を病むと白色が黄色に見えるがごとく、迷妄という病のために真我が宇宙万象に見えるのは避けがたいことである。
目の病気がなくなると病人自身で白色を知覚することがごとく、迷妄が消え去ると、真我は明白になる。
縄は過去・現在・未来にわたって決して蛇にはならないように、真我は三つのグナを超えており、けがれなきものであり、決して宇宙万象となることはない。
風の力で海の表面に泡沫が生ずるごとく、真我の上に、はかなく滅びやすい輪廻の世界は出現する。
無差別平等な実体は常に輝いている。真実にはいかなる差別も存在しない。
過去に存在したもの、未来に存在するであろうもの、有形・無形のものなど、この宇宙万象のすべては、至高の真我の上に妄想せられたものである。
無明とは分別心による妄想であって、誤謬から生じ、その本質は偽りである。この宇宙万象は無明を根源としているから、どうして真実在でありえようか。
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