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シュリーラーマチャリタマーナサ(8)「行伝の湖」

「行伝の湖」

 太陰暦の一月九日、火曜。アヨーディヤーの都において、燦然と光り輝く行伝は世に姿を現した。ラーマ様の下生される日には、すべての精霊が御降誕の地、ここアヨーディヤーに集まってくると、ヴェーダ経典に説かれている。阿修羅、夜叉、龍、動物、人間、仙人、天人などすべてがアヨーディヤーに集って、ヴィシュヌ神の化身ラーマ様に一目でもお目にかかりたいと熱望して待機する。そのなかで、心ある者はご降誕を慶祝して、栄えある神のご威徳を歌い讃える。

 その日は善男善女の一大集団が、聖なるサルジュ川のほとりに集結し、川水で斎戒沐浴し、めいめいラーマ様の黒みを帯びた麗しいご尊体を心に思い描きながら、一心に御名を唱える。ヴェーダ経典と古書には、聖河サルジュ川を礼拝し、川面に触れ、沐浴をし、水を飲む者の罪障はことごとく消滅すると謳われている。サルジュ川の神聖さには極みがなく、その功徳は計り知れない。

 壮麗な王都アヨーディヤーは、ラーマ様の本土・極楽浄土への橋渡しをする聖地である。神聖、寂静、光輝は比べるものもなく、誉まれは高く、名声は広く世界に知れわたる。宇宙は卵生、湿生、実生、胎生の四種類の生命に満たされているが、アヨーディヤーで身を捨てたものはどの種族であれ、ふたたび下界に生まれてくることはない。生死の苦界から永遠に解放されて、極楽の実相浄土の住人となる。澄明な環境、明媚な風光、そして一切生類の願望をすべて叶えるアヨーディヤーの都を、福徳の鉱山と崇めて、わたしはこの王都から物語を説き起こす。

 この物語は、聞くだけで欲情、陶酔、傲慢などもろもろの不徳を取り除く神王の伝記である。題して「シュリーラーマチャリタマーナサ(ラーマ神王行伝の湖)」という。信ずる者は、題名を耳にするだけで心に安らぎが得られる。心を野象、山火事を情欲に見立てるとき、山火事に追われて逃げ場を失った野象が、命からがら湖のほとりまで辿りついて、安堵にして幸せの水を心ゆくまで飲むのに比せられる。万人に愛好される、この「シュリーラーマチャリタマーナサ(ラーマ神王行伝の湖)」は、大神シヴァ様が創造されたものである。この物語は、罪業、非悩、貪苦など、末世のあらゆる不幸と罪業をすべて消す。大いなる神シヴァ様は物語を創ったのち、初めは独り心のうちに秘めておかれた。やがて機が熟したのを見て、愛妻パールヴァティ様に話された。シヴァ様はそのとき、深い喜びとともに物語に「シュリーラーマチャリタマーナサ(ラーマ神王行伝の湖)」という、美しい題名をつけられた。

 わたしは聞く人の魂を幸せの国に導く、麗しくも貴い神王の伝記を述べる。善男善女の諸兄姉よ!なにとぞ、敬虔な祈りとともにこの物語をお聞きいただきたい。わたしは当初の形式に従い、世間に広く流布している神話の精神を尊重して、シヴァ、パールヴァティー両神のご加護を信じて、ひたすら完成をめざす。

 初めにシヴァ様の御心に、麗しい想念が宿った。それを受け継いで、トゥルシーダースはラーマ神王行伝の語りべとなることがきた。いま、わたしはあらん限りの知識を出しつくして、美しい詩に仕立てあげたいと願う。とはいえ、善良なる諸兄姉よ! 澄み切った心で詩を聞きながら、直すべきところはどうかご自由に修正していただきたい。

 不変の真理を地球に例えるならば、人の心は大地に切れ込む深い峡谷、古書経典は大海、聖者賢人は空を覆う雨雲に見立てられる。雲は、ラーマ称名という名の、かそけく、柔らかく、澄明清浄な甘露の雨を降らせる。下生された化身の人間の営為に関する詳細な叙述は、降り注ぐ恵みの雨に相当する。俗界の汚辱は、浄らかな恵みの雨ですべて洗い流される。麗しくつつまし信者の愛念は、雨水の甘さと冷たさと柔らかさにあたる。

 人間の善行を稲に例えれば、ラーマ神王のご功業の賛嘆は、稲田を潤す慈雨に似る。稲という名の信者にとっては、命を養い育てる源である。ラーマ頌徳という名の慈雨は、真理と名づける大地に降り注ぎ、汚れのない耳孔という水路を貫き流れ、魂という名の最良の落ち着き場所を得て湖となって静かに止まる。

 時の浄化を経て、水はますます美しく澄み、味わい深く、冷たく、幸せをもたらす浄水となる。この物語には、カラス仙人ブシュンディと鳥の王ガルーダ、シヴァ様とパールヴァティー様、ヤージュニャヴァルキャ仙人とバーラドヴァージャ仙人、トゥルシーダースと修行者たちという、それぞれ高邁な英和によって結ばれる四種の系譜がある。四つの系譜は、湖に取りつけられた魅惑的な四ヵ所の水汲み場と考えてよかろう。物語を構成する七項(子どもの項、アヨーディヤーの項、森林の項、獣都・キシュキンダーの項、荘厳美の項、ランカーの項、北方の項)は、心眼をもって凝視すれば魂が法悦に震えるほどに壮麗な、水汲み場に降りる七つの階段と考えられる。悠久の生命、超自然の法力、大宇宙の原理などという、ラーマ様に対する賛辞は、神秘の湖の底知れぬ深淵である。ラーマ様とお妃シーター様の麗しい名声は不死の良薬アムリタともいうべき浄らかな湖水に相当する。豊富な例証を添えて説かれる事象は、湖面を賑わす軽快な波のさざめき、流麗な四行詩は水面に繁茂する蓮の華、行間にただよう情調は輝く真珠を生む宝の貝、ドーハーやソルテと名づけられる耳に心地よい調べを持つ詩の形式は、湖面を飾る色鮮やかな百種百様の蓮華の花模様に見立てられる。比喩では表現できない神秘性、高揚する情感、優雅な修辞は、蓮華の花粉と芳香とでも言おうか?

 数知れない善行慈善は、大黒蜂の群舞。禅定、智慧、悟道は白鳥の遊泳。韻律、風刺の妙、語彙の多様性は、魚群のたわむれ。正見、持戒、行学、解脱の四法、哲学と科学の論争、九種の詩の胡麻味、称名、苦行、神恩、さらには帰依についての論議、――これらはみな、この湖に棲息する可憐な水棲生物に相当する。志操堅固な善男善女、苦行者、ラーマ称名の賛歌こそ、端麗優雅な水鳥の群れに比せられる。聖者たちの集いは、湖畔を取り巻くマンゴー樹の美林、熱烈な信仰心は陽気発する季節の王“春”に擬せられる。

 信者同士の信仰の確認、容認、仁恕、忍耐は、蔦葛でできた天然の幔幕、殺すな、嘘を言うな、盗むな、禁欲せよ、貪欲に溺れるな、と教える五戒、清潔、知足、聖典学習、苦行、帰依の五誓は、美園を彩る百花の華やぎ、悟性は果実、神の御足に捧げる敬愛な念は、悟性という名の果実からとれる液汁に相当する。――ヴェーダ経典にはそのように説かれている。ラーマ神王の伝記には、ほかにも豊富な広がりがあるが、それは湖畔の美林に棲む鸚鵡、郭公などの美しい鳥たちである。

 壮麗な悲喜劇の展開は、庭園、花壇、森林に相当する。湖畔の森には、幸せの風が吹き、喜びの鳥たちが群れ遊ぶ。汚れを知らぬ信者の心は庭師に見立てられる。庭師の澄んだ瞳という名の水路を貫き流れ、愛情の水がふんだんに魂の水田に濯ぎ入れられる。この物語詩を敬愛をこめて一心に吟唱する篤信家は、湖の老練な管理人である。敬虔な祈りとともに歌の調べに聞き惚れる善男善女こそ湖の所有者たる天界の諸天善神そのものである。

 心の曲がった悪人や享楽に耽る怠惰者は、湖に近づこうとさえしない青鷺やカラスに似る。理由は簡単である。「ラーマ神王行伝の湖」には、かたつむり、蛙、水ごけなどという享楽者どもの欲望を満足させるに足る餌は、いっさい存在しないからである。気の毒にも、カラスと青鷺にも比すべき享楽者は、湖に行き着けずに挫折してしまう。湖畔に到着するには、多くの困難が伴い、ラーマ様のお慈悲を抜きにしては誰も行き着くことができないからである。

 悪人との深いかかわりあいは、危険な山道にあてはまる。悪人どもの暴言妄語は、虎、獅子、毒蛇のようである。家事、生業、係累のしがらみは、険しくそそり立つ巨大な岩であり、執愛、酔妄、驕慢は、荊棘やでこぼこだらけの密林、乱れとぶ悪論邪義は、始末に負えない暴れ川に見立てられる。信仰という名の路銀、導師という名の良き道連れに加えて、ラーマ様への純粋な愛という名の健脚が伴わなければ、湖へは近づけない。どんな困難があろうとそれをはねのけ、辿り着いたとしても、睡魔という大敵が待ち伏せる。倦怠と呼ばれる激しい悪寒を心身に感じはじめ、せっかくの湖畔に着きながら気の毒に水浴さえままならない。

 水浴も水を飲むこともできず、思いあがったまま空しく戻る。そして誰かに湖のことを問われると、自分の至らなさは棚にあげて湖を非難する。この種の悪質な妨害工作も、ラーマ様の慈愛の眼差しに保護される信者には、なんの効力もない。敬虔な祈りの念とともに湖の水で斎戒沐浴する信者は、宗教的、心霊的、物質的狂信という三大猛火にも焼かれず、心は常に安穏である。おお。善良なる諸兄姉よ!賢明な信者たちが、この湖の側をけっして離れようとしないのはそのためである。

 この神聖な湖の水で心身を浄めたいと願うならば、信者同士の心からの友情を頼みとするがよい。神聖極まりない湖の広がりを心眼で凝視しながら、魂を湖水の底深くもぐらせるとき、詩想はおのずと浄化され、精神には歓喜と情熱が満ち溢れ、愛と愉悦が奔流となって心身を貫く。

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