グルの遍在
自分を明け渡すグルなくして、帰依の対象なくしては、誰も「スピリチュアル・マテリアリズム(精神の物質主義)」から解放されることはできない。
エゴからの独立をもたらす「帰依」をする気持ちをまず育てることだ。帰依とは、これまでに学んできたことを放棄するプロセスである。「帰依」も「自分を明け渡す事」もなければ、私たちは学んできたことを放棄できない。師を持つ事さえ、場合によってはより進んだスピリチュアル・マテリアリズムを生み出しかねない。だがそれは師と弟子が持つコミュニケーションの質に左右される。二人の絆が滞りなく結ばれているかどうかによるのだ。
(中略)
小乗の修行が持つ帰依へのアプローチは、おもに師との素朴な関係性であり、人間的なつながりである。
師は、神とか聖者や天使などではなく、厳しい修行と勉学に励んできた当たり前の人間だと見なされている。師とコミュニケートできるがゆえに、彼との一体化が可能なのだ。彼は地球人だと言い張る火星人なんかではない。私たち同様、この地球上に生命を受け成長した人間の子供であり、あらゆる困難を体験し、教えと交わり、非凡な事柄を達成し得たごく当たり前の人間である。私たちは、思いつく限りの神秘を空想したりせずに、この人物とつきあっていくことができる。
小乗仏教徒のアプローチはきわめて実際的で、あなたはたまたま悟りを実現した他者と関わってゆく。
だが大乗仏教のアプローチにおける師は、卓越した精神的境地を実現し、日常的な出来事にも深く精通していると見なされる。彼は決して揺らぐことのない自覚を持ち、要点を見逃さない。また私たちの否定的な傾向に対処してゆけるだけの慈悲心を育ててきている。
精神性の道をあなたが歩こうとすることは、彼には全くの冗談と映るかもしれない。あなたは完全に混乱した不条理な人物として振る舞うかもしれない。にもかかわらず彼は望みを捨てない。あなたを受け入れ、あなたが生み出す腹立たしい状況と真剣に取り組んでゆく。
彼は恐ろしいほど忍耐強い。何か間違ったことをすれば、そのやり直し方法を教えてくれる。ところがあなたはついへまをしたり、彼の指示を曲解したりして、ますます失敗を重ねてしまう。そこで彼の元に戻り、彼の言葉を待つ。『大丈夫。まだ何とかできるだろう。だが今度は別のやり方で試してみよう。』
――再度の試みがなされる。絶対にやれるという確信と、ものすごいエネルギーを投入し取り組んでゆく。しかし何日かすると何もかもが面倒くさくなってくる。そこであなたは、自分を楽しませてくれそうな全く別の対象を物色する。師は、本を読まずに集中的な瞑想を修行するよう指示する。ところが本はあなたの膝元に飛び込んでくる。読まずにはいられない。それは教えの一部でもあるかのようだ。そこでまた彼のところへ戻り、こんなことを言う。
「あなたの指示には従ったのですが、この本が再三膝元に飛び込んでくるので、読まずにはいられません。」
「よろしい。何かその本から学ぶところがあったかね? もしそうなら読み進めなさい。そしてそれが言わんとしていることを読み取りなさい。」
そう彼が言ったのであなたは部屋に戻り読み始めるが、それにもまた飽きてしまう。季節は春である。花が咲き、木々は新緑の頃、自然は魅力にあふれていて、読書などに集中できない。あなたは外に出て散歩でもしたい気分になる。自然の美しさを味わいながら『瞑想的な』気分を楽しもうというわけだ。
行を修めるのはとても難しい。横道にそれていることに気がつかないまま、絶えず横道を造り出してしまう。
問題なのは師への不服従ではない。問題は、実際あなたがあまりに深刻すぎるところにある。過度に深刻すぎるから、横道にそれてしまう。
修行から脱けたり入ったりする軽薄さというあなたの無礼に対し、師は並外れた忍耐を強いられているのだ。
菩薩はワニのようだ。一度その口に入れば、もう決して逃れられない。目の前のこうした環境を捨て自由に生活したいからという理由で私たちが師のもとを離れようとすれば、彼はこんなふうに言うだろう。
「立派なことです。したいようにしなさい。さあ、行きなさい。」
去ってゆくことを是認することで彼は反抗の対象を取り除く。そこであなたは去ってゆくどころかますます彼に近づいてゆく。
それは相互的な状況だ。グルの弟子への帰依は非常に深いものなので、たとえ数え切れないほどの問題でがんじがらめにされている愚か者であっても、弟子は帰依する気持ちに目覚めてくる。師の弟子への帰依は慈悲であり、弟子の師への帰依は修行だ。ある段階に来ると、慈悲と修行が出会う。
それから私たちは、うっとりとした状態から完全に覚めた、ヴァジュラヤーナの帰依へと入ってゆく。道と一つになり、現象界はグルのあらわれとなる。そこには世界に帰依する気持ちがある。ついに教えとの一体化が実現した。時には教えを代弁する者として行動することもある。自分の無意識の心に対してさえ教えの代弁者として振る舞う。
この段階に到達すれば、人生に起こりうるどんな事態にも、教えとメッセージが含まれ始める。教えはいたるところに存在する。これは仕掛けやペテンを使った魔法のような幼児的発想ではない。だが、魔法と解釈されかねないほど奇想天外な状況だ。そこから逃れることはできない。実際には、それと一体化しているので逃げたいとも思わない。
こうして教えは、それまでのように息苦しいものではなくなり、あなたは生活環境が教えとして持つ魔法的なものに気づいてゆくのである。
(中略)
ヴァジュラヤーナにおける人生へのアプローチはある意味で智的なものであるが、それは人が物事の裏側にある含蓄を読み始めたからだ。自分を目覚めさせてくれるメッセージに気がついたのである。だがそこでの智性は考察に根ざしたものではなく、心を完全に行き渡らせることで誠実に看守されたものだ。そこで私たちは次のように言うことができる。遍在するグルのメッセージへのタントラ的なアプローチは智性によって開花し、ヴァジュラヤーナの智性へと変成されていきながら、同時に心の直観がひらめくようになるのだ、と。
これが眼と心の合一、つまり智慧と空の究極的で基本的な合一である。日常的な出来事がそのまま教えとなる。
そこでは信じるという観念さえ不要だ。あなたは尋ねるかもしれない。「一体全体、誰がこの信じるなんてことをしてるんだい?」誰もしてやしない。信じるということ自体、それを信じるということだ。あるがままに存在しているエネルギーの曼荼羅には、いかなる支えもいらない。それ自体で維持されているのだ。空間には中心も周辺もない。それぞれの周辺がまた中心でもある。帰依する者が帰依の対象から遊離しておらず、まんべんなく行き渡った帰依なのだ。
だが、こうした神秘的で刺激に富んだ言語に酔いしれてしまうのではなく、私たちはごく単純に自分のエゴをささげ、解放し、暴露していきながら、それをグルへの奉納品としていく。そこが出発点だ。そうすることができなければ、道も決して始まらない。そこを歩く人がいないからである。
教えは生きている。修行者は教えを受け入れ、その教えを具現化していかなければならないのである。
――チョギャム・トゥルンパ
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