グルの本質
グルの本質についての最も感動的にして最も的確な話を、私は我が師ジャムヤン・キェンツェから聞いた。彼は次のように語った。
私たちの真の本質は仏陀、仏性である。しかし、それははかりしれない時の彼方から、無智と混乱の黒い雲に覆い隠されてきた。とはいえ、この真の本質、仏性は、無智の専制に完全に屈服してしまったわけではない。常にどこかで無智の支配に抵抗してきたのである。
つまり、私たちの仏性には依然として活動的な部分があるということだ。【内なるグル】がそれである。仏性が覆い隠されたまさにその瞬間から、この内なるグルは倦まずたゆまず私たちに働きかけてきた。私たちを光り輝く広大な真の本質へと連れ戻そうとしてきたのである。かつて一瞬たりとも内なるグルがわたしたちを見放したことはない、とジャムヤン・キェンツェは言う。そのはかりしれない慈悲をもって、すべての仏陀とすべての悟りに至った存在の無量の慈悲をもって、内なるグルは私たちの成長のために休むことなく働き続けてきたのである。この生だけではない。過去のすべての生を通じて、ありとあらゆる手段を講じ、様々な状況を利用して、私たちを教化し、目覚めさせ、真理へ連れ戻そうとしてきたのである。
永い間、いくつもの生に渡って、真理を願い、あこがれ、求めて来て、それにカルマが十分に清められたときが重なると、一種の奇跡が起こる。私たちと常に共にいた【内なるグル】が、【外なるグル】となって姿を現すのである。私たちはまるで魔法のように外なるグルに出会うのである。この出会いこそが生における最も重要な出来事なのだ。この奇跡を理解し生かすことができれば、無智に永遠の終わりをもたらすことができるのである。
この外なるグルとは何者か。それは私たちの内なるグルの具現、声、表出にほかならない。つまり【師】である。その人間としての形を、人間としての声を、その叡智を、私たちは人生の何よりも深く愛するようになる。師とは、私たち自身の内なる真理の神秘が外なるかたちを取って現れたものなのである。そうでなければ、私たちが感じる師とのかくも強い絆をどう説明できるだろう。
最も深く高い次元において、グルと弟子はいかなる形であれ決して分離した二つの存在ではない。そういうことはあり得ない。なぜなら、私たち自身の内なるグルが発する明快なメッセージを明快なまま受け止めることを教え、内なるグルという究極のグルが私たちの中に常に存在していることに気づかせるのが、グルの仕事だからである。あなたがこの師弟関係という完璧な友情の喜びをこの生において味わうことを、私は祈ろう。
グルは内なるグルの直接の代弁者であるだけではない。グルは悟りに至ったすべての者のすべての加護を私たちにもたらす運び手、通路、通信機でもある。グルがあなたの精神と心を啓発する並外れた力を持っているのはそのためだ。グルは人間の顔をした絶対なるもの、電話機である。あなたが望めば、すべての仏陀が、すべての悟りに至った者が、それを通じてあなたに呼びかけることができる。グルはすべての仏陀の智慧の結晶であり、慈悲の具現である。それは常にあなたに向けられている。彼らの宇宙的陽光の輝きはまっすぐにあなたの精神と心に向かっているのだ。あなたを解放するために。
我々の伝統では、グルは仏陀たちよりもさらに慈愛深い存在として敬われる。仏陀たちの慈悲と力は常に私たちと共にあるのだが、私たちは意識が曇っているために彼らと出会えないでいる。だがグルに会うことはできる。グルはそこにいる。あらゆる方策を尽くして、仏陀への道を、解脱への道を私たちに示すために、私たちの目の前で生き、呼吸し、話し、行動している。私たちにとってグルは生ける真理の具現である。この肉体にあって、この生にあって、この世界にあってなお、今ここで悟りに至りうることを示す明白な証である。私の修行における、仕事における、生における、解脱への旅における、至上の霊感である。私にとってのグルは、自ら悟りに至るまでは悟りを心の中の最優先事項にとどめておこうとする、私の神聖なる試みの具現なのである。私は痛いほどわかっているつもりだ。私が自ら悟りに至ったとき、そのときようやく、私はグルの真の姿を、そのはかりしれない寛大さと愛と叡智を、完全に理解することになるのだ、と。
次の美しい祈りを、ジクメ・リンパの言葉を、皆で分かち合いたい。チベットではこれは、心の中に師の存在を喚起する祈りとされている。
「私の胸中に咲き出た敬信の蓮華から
わが唯一の帰依処、慈恩に満ちたグルが立ちのぼる。
カルマと煩悩の耐えがたい苦しみの
悪縁から私を守るため、
頭頂マハースカ・チャクラの宝冠に座したまう。
曇りなき覚醒と正智がすべて、私の内にわきいでますように!」
――ソギャル・リンポチェ