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グルと三宝への帰依

◎段階的な意味でのグルと三宝への帰依

 まだ本当の意味で真理や至高者やグルとの縁がない人、あるいは内に持っているけど目覚めていない人は、まずは法友との友人関係によって真理の実践を始める。彼の心は世俗の友よりも法友が占める割合が徐々に大きくなることで、どんどん真理に導かれる。

 次の段階の者は、真理そのものを求め、真理を追究し、真理の教え通りに生きたいと思う者である。これはこれで素晴らしい。しかし彼はまだ、真理というものを概念的にとらえている。ここでその概念的な世界にはまってしまう人もいる。頭を柔軟に保って、真理を探究しなければならない。

 さらに高い段階の者は、そもそも真理の教えそのものも方便であり、その源は仏陀、至高者(バガヴァーン)と呼ばれる唯一のお方から来ていると理解する。よって自分の観念さえも捨て、ひたすら至高者に帰依をする。

 そしてさらに高い段階においては、その言葉を超えた究極の至高者が、自分の師そのものであることを理解する。師だけがすべてであったと理解する。あらゆる二元性を超えた唯一の真実が、一見二元の世界の産物のように見える肉体を持った師の中にあることを直感的に理解する。そうして彼にとっては三宝さえもなく、ただ師がすべてとなる。
  

◎総合的な意味でのグルと三宝への帰依

 普通、人は、無意識に家族、友人、同僚などとの精神的社会を心の中に作る。
 そしてたとえば、「こういうことをすると彼らに恥ずかしい」「彼らとの間柄のこういう常識に合わせるためにこういうことをしよう」ということを無意識に考える。
 そのような精神的社会を、法友たちのみの世界にするのだ。つまり「聖者社会」に没頭するのだ。
 といっても、現実的な、法友以外の社会のことを一切考えてはいけないということではない。必要に応じて世俗の社会に合わせることは「頭」で考えればいい。心は常に「聖者社会」に没頭するのだ。

 そしてそもそものよりどころとする考え方、常識、これらを、小さいころから教えられてきた、培ってきたものではなく、「真理のダルマ」に完全に挿げ替える。それを今の自分が理解できようができまいが、できるだけ教え通り、教えによって自分の身口意を統御する。

 そして常に至高なる神を思う。それは名前や姿は、仏陀でもシヴァでもヴィシュヌでもラーマでもクリシュナでも何でもいい。ただそのお方が、唯一の完全者であるという思いを忘れないようにする。そのお方への愛で心をいっぱいにする。できるだけ24時間、そのお方を思う。自分に起きることはすべてそのお方の愛の現れだと考え、喜んで受け入れる。ただそのお方への供物として日々の修行や活動を行う。

 そして生身の体を持った自分の師を、その至高者そのものであると考える。

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