yoga school kailas

クンサン・ラマの教え 第一部 第四章「カルマ:原因と結果の法則」(1)

第四章 カルマ:原因と結果の法則

 悪を捨て、善をなす。原因と結果についての教えの通りに。
 行ないは三乗に従っている。
 完璧な見解によって、あらゆる執着を離れている。
 比類なき師よ、あなたの御足に礼拝いたします。

 本章では、どのように他者を自分と同じように考えるかについて、次の三点を説明する。
 
・やめるべき悪しき行ない
・なすべき善き行ない
・行ないの特性を完全に決めること

(1)やめるべき悪しき行ない

 輪廻において、三善趣(人間・阿修羅・天)に生まれるか三悪趣(地獄・動物・低級霊)に生まれるかを決めるのは、積み重ねてきた身口意の善き行ないと悪しき行ないである。輪廻自体が行ないの結果によって構成される。高位の世界に生まれるか下位の世界に生まれるかを決めるのは行ない以外の原因はなく、偶然はない。よって、常に善き行ないと悪しき行ないの結果を分析し、誤ったことをすべてやめて、正しいことをなさなければならない。

1.やめるべき十の悪しき行ない

 十のうちの三つは身体的な行為であり、殺生、与えられていないものを奪うこと、邪淫である。
 四つは言葉の行為であり、嘘をつくこと、両舌、悪口、意味のない言葉である。
 三つは心の行為であり、愛著、嫌悪、誤謬見解である。

殺生:殺生とは、それが人間であれ、動物であれ、その他の生き物であっても、他の生き物のの命を終わらせるためになす行ないを意味する。
 肉を食べるためや毛皮を着るために動物を殺すことは、欲望による殺生の一例である。正しいか間違っているかを判断することなく命を奪うことや、外道のように、命を奪うことが真理にかなっていると信じて命を奪うことは、迷妄による殺生である。
 即時に果報を伴う行為を呼ばれる殺生には三つある。なぜこう呼ばれるかというと、これらを犯すとバルドの過程を経ずに即座に無間地獄に生まれ変わるからである。その三つとは、父を殺すこと、母を殺すこと、アルハットを殺すことである。
 意識的に殺生をしたことがない人でも、例えば歩いているときに小さな虫を踏み潰すなど、気づかぬうちに誰もが殺生の悪業を積み重ねてしまっている。
 殺生は、悪しき行ないの四つの要素をすべて具えることによって完全なものとなる。野生動物を殺す猟師を例に取ってみよう。まず鹿などを見て、それが動物だと疑いなく考える。生きている動物だと認識することが、行為の「基礎」である。次に、殺そうという考えは、行為を起こすための「意志」である。そして実際に銃、弓、矢などを使って動物を攻撃し、殺すという行ないは、行為の「実行」である。その結果、動物の生命機能が止まり、肉体と心の結合が切断される。これが、命を奪う行為の最終的な「完成」である。
 生き物を殺そうとしただけで、地齋には殺していないとしても、殺生の「基礎」と「意志」は成立していることになり、悪行の二つの要素が満たされている。実際に命を奪うことを実行することに比べれば罪は少ないとしても、悪のけがれは残る。
 殺すという行為を実際に行なった人だけが悪業を積み、それを命じた者は、殺生にならないか、あるいはほんの少しの悪業にしかならないと考える人もいる。しかし実際は、一つの殺生に関係した者すべてに悪業の果報が降りかかることを知らなくてはならない。
 

与えられていないものを盗むこと:与えられていないものを盗むことには、三種類ある。それは、力づくで奪う、隠れて盗む、騙して奪うことの三つである。
 「力で奪う」ことは、征服して取ることとも呼ばれる。
 「隠れて盗む」ことは、所有物を秘密裏に奪うことを意味し、泥棒が見つからないように盗むことなどを指す。
 「騙して奪う」ことは、例えば商業取引で重さや長さについて嘘をついたりごまかしたりするなどがある。
 今日、商業などでは、あからさまな詐欺でない限り、ものの価値について騙したり不正をしたりして多くの利益を得ることが誤ったことだとは思われていない。しかし実際には、どのようなかたちであれ他人を騙して得た利益は、窃盗と変わりない。
 あるときジェツン・ミラレーパは、ある僧院の部屋の前に横たわって寝た。その部屋に住んでいる僧侶は、寝床に横になりながら、明日売ろうと思っている牛のことを考えていた。「頭を売れば儲かるし、肩の骨はもっと値打ちがあるし、肩の肉はさらに、膝や脛の肉はさらに高く売れるだろう」と、牛のあらゆる部位の値段をあれこれ計算し続け、結局一睡もできなかった。夜が明けるとその僧侶はすぐに起き上がり、礼拝をしてトルマを捧げた。
 部屋の外に出ると、ミラレーパが寝ていた。彼はミラレーパに、「修行者のくせに、こんな時間までまだ寝ているとは! 修行や詠唱はしないのか?」と言って、軽蔑を込めて非難した。
 ミラレーパは答えた。
「いつもはこんなではないのですが、昨夜は一晩中、自分の牛を殺してどのように売ろうかと考えていたので、眠れなかったのです。」
 この話の僧侶のように、今の人々は金儲けに昼も夜も没頭して、いつも計算してばかりである。このような煩悩に憑りつかれ、死ぬときでさえ煩悩に心覆われたまま死んでいく。終わることなき欲望に憑りつかれると、他者を救おうという素晴らしい菩提心に背を向けてしまうことになり、悪しき行ないは無限に増大することになってしまう。

邪淫:出家した修行者は、一切の性的行為を避けるべきである。
 最も深刻な邪淫は、性的戒律を守っている他人を、戒律を破るように誘惑することである。
 在家の場合は基本的にはパートナーとの性行為は許されるが、相手や場所、状況などの条件によっては邪淫となる。
 たとえば、マスターベーションをしてはいけない。
 他者と結婚している人、あるいは婚約している人との性行為はしてはいけない。
 在家でも一時的に禁欲の戒を守っている間に性行為をしてはいけない。
 病気のとき、妊娠中、相手や自分が誰かとの死別などで悲しんでいるとき、月経中、出産からの回復中などに性行為をしてはいけない。
 三宝を象徴するものがある場所で性行為をしてはいけない。
 自分の親、その他の禁じられた血縁者、年端もいかない相手と性行為をしてはいけない。
 口や肛門などで性行為をしてはいけない。

嘘:嘘には三種類ある。普通の嘘、深刻な嘘、偽僧侶の嘘である。
 「普通の嘘」は、本当ではないことを言ったり、人を騙そうとして言葉を発することである。
 「深刻な嘘」は、例えば、善き行ないをしても幸福になどならず、悪しき行ないをしても害はなく、浄土には幸せがなく、三悪趣には苦しみがない、仏陀には善き特性がない、などと言うことである。
 「偽ラマの嘘」は、例えば、自分は菩薩のこれこれの地に達した、千里眼があるなど、悟りの境地や力を、持ってもいないのに持っていると言うことである。
 今日では、詐欺師の方が真実の師よりも成功しやすい。また、真実の教えを説くよりも、大衆の考えに合うことを言うことで成功しやすい。そのため、自分は偉大な師であるとか成就者であると称して、人を騙そうとする者が多い。彼らは霊的な存在に供物を捧げたり、悪霊を見たとか清めたなどと主張する。そのような者たちの大多数が、偽ラマである。よって、そのような詐欺やいかさまに騙されないように注意しなさい。そのような者たちとかかわることは、今生のみならず来世にも影響を及ぼしてしまう。

不和の種をまく:不和の種をまくことは、大っぴらな方法と、陰で行なう方法がある。
 「大っぴらに不和の種をまく」ことは、誰かと誰かが不和になるようなことを、大っぴらに言うことである。
 「陰で不和の種をまく」ことは、陰で悪口を言ったりすることで、誰かと誰かの中を裂くことである。
 最も悪い不和の種をまくことは、サンガの人々の間に不和を起こすことである。特に、密教の師と弟子の間や、密教の兄弟姉妹たちの間に裂け目を作ることは、非常に深刻な悪業となる。

悪口:悪口とは、例えば他人の欠陥について無礼な言葉を吐くこと、他人の隠れた欠点を暴くことなどである。
 実際には、あらゆる種類の攻撃的な言葉や、人を不幸にさせるどんな言葉も、たとえばそれを乱暴にではなく穏やかにしゃべったとしても、悪口となる。
 特に、師や聖なる存在の前で悪口を言うことは、大変な過ちとなる。

意味のないおしゃべり:意味のないおしゃべりとは、何の目的もなく意味のないことを話したり、執着や憎悪をかきたてるようなことを意味もなく話すことである。
 特に、聖なる祈りや読誦などをしている人を、無意味な言葉で邪魔したりすることは、非常に有害である。
 意味のないうわさ話は、自然にどこからともなく生まれるように思えるが、よく観察すれば、大部分が自分の欲望や嫌悪から生まれていることがわかる。

愛著:愛著とは、何かを欲しいというあらゆる考えのことである。

嫌悪:これは、他者に対して抱くあらゆる悪意のことである。

誤った見解:誤った見解とは、カルマの法則はないといった考えや、この世は永遠であるという永遠主義や、すべては虚無であるというニヒリズムなどの見解を持つことである。
 外道の考え方は、三百六十あるいは六十の誤った考え方に分類できるが、そのような間違った宗教の教えを正しいと考えて従ったり、逆に仏陀や解脱者の教えを間違いであると考えて疑ったり批判したりすることはすべて、誤った見解といえる。
 次のように説かれている。

 他者の命を奪うことよりも悪しき行ないはないが、
 十の悪しき行ないの中で、誤った見解が最も重い。

 誤った見解を持つことは、すべての戒を破ったのと同じであり、人間として存在しダルマを修行できる自由を否定することになる。誤った見解を持った瞬間から、心は誤った考え方でけがされ、悟りへ導かれることはなく、悪しき行ないをしてももはや懺悔することもできなくなる。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする