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クンサン・ラマの教え 第一部 第三章「輪廻の苦しみ」(1)

第三章 輪廻の苦しみ

 輪廻の行ないには何も意味がないと理解して、
 大いなる慈悲を持って、他者を救うことだけを求めなさい。
 輪廻にもニルヴァーナにも執着することなく、大乗に従って行動しなさい。
 偉大なる師よ、あなたの御足に礼拝いたします。

 本章は、輪廻の苦しみに対する一般的な考察と、六道のそれぞれ固有の苦しみについての考察から構成されている。

(1)一般的な輪廻の苦しみ

 これまでに述べたように、自由と条件をそなえた人生は得難いものであるが、長く続くことはない。無常と死の力によってすぐに終わりを迎える。その後は、火が燃え尽きるように、あるいは水が蒸発するように、すべてが終わる。しかし、死後何もなくなってしまうわけではなく、新しい生を得ることになる。つまり、解脱しない限り、輪廻の外へ出ることはできない。
 「輪廻(サンサーラ)」という言葉は、存在の車輪や回転を意味し、一つの場所から別の場所へとろくろや水車のように円を描いて回っていくことをあらわしている。蓋をした瓶の中にハエが入れられると、どの方向へ飛ぼうがそこから出ることはできない。同様にわたしたちも、高位の世界に生まれようが低位の世界に生まれようが、輪廻の外へ出ることはできない。
 瓶の上部は神々や人間などの三善趣に相当し、下部は悲痛に満ちた三悪趣に当たる。わたしたちはろくろや水車のようにぐるぐると回り、善き者も悪しき者も、執着によってなされたおこないの結果に応じて六道の様々な世界に次々と生を受ける。
 無始の過去から、わたしたちはこのような輪廻をさまよい続けている。輪廻においては、どのような生き物も例外なく、お互いに対して愛情、憎悪、無関心を持つ関係にある。誰しもが、他の者の父であり、母である。
 ナーガールジュナは、このように説いている。

 杜松の木の実ほどの大きさの粘土の球で母を数えようとするなら、
 この大地をすべて使い切ってしまうだろう。

 無始の過去から、輪廻において今までにわたしたちが生を受けなかった生き物は一つとしてない。
 自分の欲望によって、自分の頭と手足を数えきれないほど切り落とした。アリや他の小さな虫だったときに失った手足を一か所に集めたなら、その高さはメール山よりも高くなるだろう。
 食料や着るものがないために寒さや飢えや渇きで流した涙を集めれば、世界を囲む大海よりも大きな海となるだろう。
 地獄で飲まされた溶けた銅の量は、四つの大海よりも大きいだろう。
 欲望と執着によって、少しも後悔することなく輪廻にしがみついているすべての衆生は、このような終わりのない循環によって、さらなる苦しみを味わい続けている。
 善き行ないの結果、長い寿命、完全な身体、富、インドラ神の栄光などを得ることができたとしても、最終的に迎える死を延期することはできない。そして死後は、三悪趣の苦しみを再び経験する。今生においても、権力、富、健康などを享受することは稀であり、数年か数か月か数日しか続かない。いったんこれらの幸福な状態を生み出した善き行ないの効果が尽きれば、望むと望まないとにかかわらず、貧困に陥り辛酸をなめたり、三悪趣の耐え難い苦しみを味わわなければならない。
 その種の幸福に、何の意味があるのだろうか? 眠りから覚めれば途中で終わってしまう夢のようなものである。少しの善き行ないの結果、今は幸せで穏やかに見えるかもしれないが、そのカルマが尽きれば、一瞬たりともその状態を保つことはできない。
 神々の王たちが、高価な布を広げ、貴重な宝石をちりばめた玉座に座して、五感すべてを楽しませている。しかしいったん寿命が尽きれば、地獄の焼けた床の上に真っ逆さまに落ちていく。
 ゆえに、輪廻の見せかけの喜びを信じてはいけない。この人生において苦しみの大海から抜け出し、完全な仏陀の境地という永遠の真実の幸せを得ると決意しなさい。

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