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クリアーライトのヴィジョンとゾクチェンの修行の秘訣の教え(8)

 ダルマターが根本であり、始まりから存在していて、ありのままに今この瞬間にあるということに気付いていない者たちは、一切の現象を空だと考える。彼らの瞑想は、わざわざ空性にとらわれている。

 その他の者たちは、顕現するヴィジョンを真実であると考えている。彼らは、神々や光球などの観想を含んだ瞑想に希望を抱いている。

 また、「究極のダルマターはこのようなものでもそのようなものでもない」と言って、ダルマターがあたかも「真理」「永遠」「実在」であるかのようにとらえている者たちもいる。彼らはこの知識を瞑想の対象とし、「実在」という概念をダルマターに重ね合わせているのである。

 また、一切の現象は空であるのだから、輪廻もニルヴァーナもカルマも存在しないと主張する者たちは、ニヒリスティックな「無」を瞑想し、存在の否定に陥る。そのような誤った見解を持つ者たちは、「絶対」という概念を、己の大切な見解と見なして瞑想をしている。彼らはこのように、空性や顕現、存在や非存在を瞑想しているのである。

 心がでっち上げたそのような二元的な瞑想に励む者たちは、己の見解を教義のように大事に保持し、「受容」と「拒絶」という不完全な行為をでっち上げる。ゆえに、彼らの見解と行為もこのようにでっち上げられたものなのである。

 形だけの瞑想と、心がでっちあげた見解に希望を抱く者たちは、「受容」と「拒絶」を超越した原初の自由の要点への理解を欠いている。ゆえに彼らは「輪廻とニルヴァーナ」または「善と悪」にとらわれているのである。このような者たちは皆、条件づけられた生存を経験し続けるだろう。

 彼らは、条件づけられた生存を実在するものと見なし、それを放棄すべきものと見なす。しかし、そうすることはできない。肉体を放棄せずして影を捨て去ることができないように、輪廻の根本原因を放棄せずして、輪廻の苦しみを放棄することは不可能なのである。輪廻の根本原因とは、事物を実在するものと見なすことだ。ゆえに、輪廻の苦しみの経験は続いてゆくのである。

 教えと乗(ヤーナ)について、見方の偏った二元的見解にとらわれる者たちは、観念の殻に閉じ込められ、「この教えは良い、その教えは悪い」「これはわたしの伝統で、それは別の伝統だ」「わたしの伝統は正しい、その他の伝統は間違っている」とジャッジを下す。このようにして、彼らは愛著・嫌悪・迷妄を増大させる。教えに従う者たちは、「宗教(精神世界)」という乗にとらわれてしまうのだ。

 自と他という二元的な認識を実在するものと見なす者たちは、感情という鳥かごに捕らえられ、より一層輪廻の束縛に縛られることとなる。彼らは感情が生起すると対抗手段を用いて、より一層制約されてしまうだろう。

 これは、聖ナーガールジュナによって著された「ラトナマーラー(ラトナーヴァリー)」の中にある言葉と一致している。

 五蘊にとらわれている限り
 人は「わたし」にとらわれ続ける。
 「わたし」への執着から
 カルマは生じる。

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